騎士団隊長の初恋は、訳あり男装剣士でした
西離宮。午後。
令嬢としての礼儀作法の再教育を受けてしばらくーー
今日は、ベイルと初めてのお茶会。
フェリスは、静かに息を整えた。
この部屋に立つとき、求められるのは“フェリス”ではない。
(……大丈夫)
胸の内で、小さく確認する。
“セレスティア”として振る舞うこと。
それが今の自分の役目だ。
窓から射し込む光が、白い床をやわらかく照らしている。
庭に面した応接室は、静かで、どこかよそよそしいほど整っていた。
扉が、控えめに叩かれる。
「ベイル様がお見えです」
侍女の声。
「ーーお通しして」
落ち着いた声が、内側から返る。
それはもう、迷いなく“令嬢の声”だった。
一拍ののち、扉が開いた。
ベイルは、足を踏み入れる。
室内に踏み入れたベイルの姿は、いつもの騎士服ではなかった。
濃紺の上着。
過度な装飾はないが、仕立ての良さが一目でわかる。
肩から腕にかけての線は無駄なく整い、身体に自然に沿っていた。
胸元には、家の紋章を示す控えめな刺繍。
光を受けても主張しすぎない、落ち着いた輝き、
帯剣はしていない。
腰回りは驚くほど軽く、余計な重みがない。
そしてそのまま、視線が前を向く。
室内の中央。
陽の光を背にして立つ、一人の女性。
フェリスだった。
ーーいや。
(違う)
一歩、視線を進めるほどに、その印象は強くなる。
淡い色のドレス。
無駄のない装飾。
背筋はまっすぐに伸び、指先まで意識が行き届いている。
ゆっくりと、こちらへ向き直る。
「お久しぶりです。ベイル様」
柔らかな声。
完璧な礼。
その動作に、一切の淀みはなかった。
ーーあまりにも、綺麗すぎるほどに。
(……セレスティア様、だな)
ふと、そんな呼び方が頭をよぎる。
フェリスではなく。
距離を隔てた、別の誰かのように。
ベイルは、言葉を返すのが一瞬遅れる。
「……ああ」
短く答える。
それ以上、続かない。
セレスティアは、微笑んだまま静かに視線を上げる。
淀みのない動作。完璧な令嬢のそれ。
「本日はお越しいただき、ありがとうございます。お忙しい中ーー」
その声音は穏やかで、非の打ち所がない。
ベイルはそれを正面から受け止めながらーー
わずかに眉を寄せた。
違和感は小さなものだ。
だが、無視できない。
礼も、声音も、視線の運びも。
どれも正しい。
ーー正しすぎる。
(なんだ、これは……)
言葉になりかけて、止まる。
何が違うのか、自分でもはっきりしない。
ただ。
妙に、落ち着かない。
言葉を聞いているはずなのに、
中身が、頭に入ってこない。
「ーーお忙しい中ーー」
続くはずの言葉。
その先を、なぜか待てなかった。
「いい」
気づけば、口にしていた。
遮る形で。
自分でもわかるほど、間が悪い。
ーーしまった、と思う。
セレスティアの言葉が止まる。
一瞬だけ、空気が揺れた。
だが、彼女はすぐに整える。
「……失礼いたしました」
(……違う)
遮ったのは、自分だ。
セレスティアの非ではない。
わずかに息を吸い、視線を戻す。
「……いや」
低く、短く。
「今のは俺が悪い」
一拍。
「続けてくれ」
ほんのわずかに、間を置く。
セレスティアが、目を見開く。
だがすぐに整える。
「……いえ」
軽く首を振る。
「こちらこそ、配慮が足りませんでした」
きちんとした返し。
正しい応答。
ーーそのはずなのに。
目の前にいるのは、確かにフェリスだ。
顔も、声も、変わっていない。
だがーー
(違う)
さっきより、はっきりとそう思う。
謝った。
言葉も、間違っていない。
それなのにーー
(距離が、戻らない)
むしろ。
(……遠くなった気がする)
理由はわからない。
だが、確かにそう感じる。
胸の奥に、小さな引っかかりが残る。
「どうそ、お掛けください」
セレスティアが手で示す。
距離を保った、正しい誘導。
ベイルは、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
向かいに、彼女も座る。
背筋はまっすぐ、
指先は整えられている。
沈黙。
「……」
(や、やりづらい……)
ベイルは視線を少し逸らす。
やがて、セレスティアが口を開く。
「王都のご様子はいかがですか」
「……特に、問題ない」
「それは、なによりでございます」
ーー会話は成立している。
なのに。
ベイルはわずかに眉を寄せた。
その様子を見て、フェリスの内心がざわつく。
(……あれ?……なんだか……機嫌がよくない?)
原因を探る。
(失礼はしていない……はず)
礼も、言葉も、間も。
すべて教わってきた通りだ。
「あの……何か、お気に障る事でもございましたでしょうか」
丁寧な問い。
正しい距離の言葉。
ベイルは、ほんの一瞬だけ言葉に詰まった。
「なんだか……」
少し間を置いて、
「距離が遠い」
ぽつりと呟いた。
フェリスが瞬きをする。
「ーーえ?」
フェリスは一瞬、意味を測りかねる。
(距離……)
(適切な距離は保っているはず)
(遠い、とは……?)
ふと視線を落とす。
テーブルの上。
整えられたティーセット。
そしてーー
「申し訳ございません」
すぐに立ち上がる。
(……ん?)
ベイルはその動きを目で追った。
(……いや、待て)
ティーカップを持ち上げる指先。
位置を整える動き。
ベイルの手元へ、少しだけ近づける。
(そこを直すのか)
「こちらの配置では、お取りづらかったかと」
「どうぞ」
穏やかな声。
淀みのない所作。
ーー違う。
(そうじゃない)
反射的に、そう思う。
だが、次の瞬間ーー
その彼女の表情を見た。
わずかに、緩んでいる。
上手くいった、とでも言うような。
これできっと正しいはずだ、と信じているような。
「……くっ」
思わず、息が漏れた。
抑えるより先にこぼれたそれは、明らかに、笑いだった。
(なんで、そこでそうなる)
口元を押さえる。
だが、完全には消えない。
完璧に整えられているはずの姿。
非の打ちどころのない振る舞い。
それなのにーー
(……フェリスだ)
確信が、静かに落ちる。
無垢で。
真っ直ぐで。
正しくあろうとしてーー
ほんの少しだけ、外す。
(……変わっていない)
さっきまで胸の奥に引っかかっていた、あの妙な違和感がーー
すっと、ほどけていく。
「……何か、私、おかしなことを?」
不思議そうに、セレスティアが首を傾げる。
その仕草すら、どこかきちんとしていてーー
けれど、やはりどこか、わずかに噛み合わない。
ベイルは小さく息を吐いた。
「……いや」
短く、答える。
「何でもない」
まだ、口元に残る笑いを、ようやく押し殺しながら。
(……なんだ)
小さく息を吐く。
(いるじゃないか)
仮面の奥に。
(ちゃんとフェリスが)
その事実に、理由のわからない安堵が、静かに落ちる。
向かいに座る彼女は、首を傾げたままーー
(……とりあえず、よかった)
小さく、胸の内で息をついた。
理由はわからない。
けれどーー
先ほどまであった張り詰めたものが、ほんの少しだけ、緩んだ気がした。
完璧な笑み。
完璧な距離。
ーーなのに。
(……やりづらいのは変わらないが)
それでもいい、と思う。
この噛み合わなさも。
このわずかなズレも。
(……悪くはない)
静かな午後。
整えられた応接室の中で。
先ほどとは違う。
ほんの少しだけ、
距離の測り方を思い出した気がした。
令嬢としての礼儀作法の再教育を受けてしばらくーー
今日は、ベイルと初めてのお茶会。
フェリスは、静かに息を整えた。
この部屋に立つとき、求められるのは“フェリス”ではない。
(……大丈夫)
胸の内で、小さく確認する。
“セレスティア”として振る舞うこと。
それが今の自分の役目だ。
窓から射し込む光が、白い床をやわらかく照らしている。
庭に面した応接室は、静かで、どこかよそよそしいほど整っていた。
扉が、控えめに叩かれる。
「ベイル様がお見えです」
侍女の声。
「ーーお通しして」
落ち着いた声が、内側から返る。
それはもう、迷いなく“令嬢の声”だった。
一拍ののち、扉が開いた。
ベイルは、足を踏み入れる。
室内に踏み入れたベイルの姿は、いつもの騎士服ではなかった。
濃紺の上着。
過度な装飾はないが、仕立ての良さが一目でわかる。
肩から腕にかけての線は無駄なく整い、身体に自然に沿っていた。
胸元には、家の紋章を示す控えめな刺繍。
光を受けても主張しすぎない、落ち着いた輝き、
帯剣はしていない。
腰回りは驚くほど軽く、余計な重みがない。
そしてそのまま、視線が前を向く。
室内の中央。
陽の光を背にして立つ、一人の女性。
フェリスだった。
ーーいや。
(違う)
一歩、視線を進めるほどに、その印象は強くなる。
淡い色のドレス。
無駄のない装飾。
背筋はまっすぐに伸び、指先まで意識が行き届いている。
ゆっくりと、こちらへ向き直る。
「お久しぶりです。ベイル様」
柔らかな声。
完璧な礼。
その動作に、一切の淀みはなかった。
ーーあまりにも、綺麗すぎるほどに。
(……セレスティア様、だな)
ふと、そんな呼び方が頭をよぎる。
フェリスではなく。
距離を隔てた、別の誰かのように。
ベイルは、言葉を返すのが一瞬遅れる。
「……ああ」
短く答える。
それ以上、続かない。
セレスティアは、微笑んだまま静かに視線を上げる。
淀みのない動作。完璧な令嬢のそれ。
「本日はお越しいただき、ありがとうございます。お忙しい中ーー」
その声音は穏やかで、非の打ち所がない。
ベイルはそれを正面から受け止めながらーー
わずかに眉を寄せた。
違和感は小さなものだ。
だが、無視できない。
礼も、声音も、視線の運びも。
どれも正しい。
ーー正しすぎる。
(なんだ、これは……)
言葉になりかけて、止まる。
何が違うのか、自分でもはっきりしない。
ただ。
妙に、落ち着かない。
言葉を聞いているはずなのに、
中身が、頭に入ってこない。
「ーーお忙しい中ーー」
続くはずの言葉。
その先を、なぜか待てなかった。
「いい」
気づけば、口にしていた。
遮る形で。
自分でもわかるほど、間が悪い。
ーーしまった、と思う。
セレスティアの言葉が止まる。
一瞬だけ、空気が揺れた。
だが、彼女はすぐに整える。
「……失礼いたしました」
(……違う)
遮ったのは、自分だ。
セレスティアの非ではない。
わずかに息を吸い、視線を戻す。
「……いや」
低く、短く。
「今のは俺が悪い」
一拍。
「続けてくれ」
ほんのわずかに、間を置く。
セレスティアが、目を見開く。
だがすぐに整える。
「……いえ」
軽く首を振る。
「こちらこそ、配慮が足りませんでした」
きちんとした返し。
正しい応答。
ーーそのはずなのに。
目の前にいるのは、確かにフェリスだ。
顔も、声も、変わっていない。
だがーー
(違う)
さっきより、はっきりとそう思う。
謝った。
言葉も、間違っていない。
それなのにーー
(距離が、戻らない)
むしろ。
(……遠くなった気がする)
理由はわからない。
だが、確かにそう感じる。
胸の奥に、小さな引っかかりが残る。
「どうそ、お掛けください」
セレスティアが手で示す。
距離を保った、正しい誘導。
ベイルは、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
向かいに、彼女も座る。
背筋はまっすぐ、
指先は整えられている。
沈黙。
「……」
(や、やりづらい……)
ベイルは視線を少し逸らす。
やがて、セレスティアが口を開く。
「王都のご様子はいかがですか」
「……特に、問題ない」
「それは、なによりでございます」
ーー会話は成立している。
なのに。
ベイルはわずかに眉を寄せた。
その様子を見て、フェリスの内心がざわつく。
(……あれ?……なんだか……機嫌がよくない?)
原因を探る。
(失礼はしていない……はず)
礼も、言葉も、間も。
すべて教わってきた通りだ。
「あの……何か、お気に障る事でもございましたでしょうか」
丁寧な問い。
正しい距離の言葉。
ベイルは、ほんの一瞬だけ言葉に詰まった。
「なんだか……」
少し間を置いて、
「距離が遠い」
ぽつりと呟いた。
フェリスが瞬きをする。
「ーーえ?」
フェリスは一瞬、意味を測りかねる。
(距離……)
(適切な距離は保っているはず)
(遠い、とは……?)
ふと視線を落とす。
テーブルの上。
整えられたティーセット。
そしてーー
「申し訳ございません」
すぐに立ち上がる。
(……ん?)
ベイルはその動きを目で追った。
(……いや、待て)
ティーカップを持ち上げる指先。
位置を整える動き。
ベイルの手元へ、少しだけ近づける。
(そこを直すのか)
「こちらの配置では、お取りづらかったかと」
「どうぞ」
穏やかな声。
淀みのない所作。
ーー違う。
(そうじゃない)
反射的に、そう思う。
だが、次の瞬間ーー
その彼女の表情を見た。
わずかに、緩んでいる。
上手くいった、とでも言うような。
これできっと正しいはずだ、と信じているような。
「……くっ」
思わず、息が漏れた。
抑えるより先にこぼれたそれは、明らかに、笑いだった。
(なんで、そこでそうなる)
口元を押さえる。
だが、完全には消えない。
完璧に整えられているはずの姿。
非の打ちどころのない振る舞い。
それなのにーー
(……フェリスだ)
確信が、静かに落ちる。
無垢で。
真っ直ぐで。
正しくあろうとしてーー
ほんの少しだけ、外す。
(……変わっていない)
さっきまで胸の奥に引っかかっていた、あの妙な違和感がーー
すっと、ほどけていく。
「……何か、私、おかしなことを?」
不思議そうに、セレスティアが首を傾げる。
その仕草すら、どこかきちんとしていてーー
けれど、やはりどこか、わずかに噛み合わない。
ベイルは小さく息を吐いた。
「……いや」
短く、答える。
「何でもない」
まだ、口元に残る笑いを、ようやく押し殺しながら。
(……なんだ)
小さく息を吐く。
(いるじゃないか)
仮面の奥に。
(ちゃんとフェリスが)
その事実に、理由のわからない安堵が、静かに落ちる。
向かいに座る彼女は、首を傾げたままーー
(……とりあえず、よかった)
小さく、胸の内で息をついた。
理由はわからない。
けれどーー
先ほどまであった張り詰めたものが、ほんの少しだけ、緩んだ気がした。
完璧な笑み。
完璧な距離。
ーーなのに。
(……やりづらいのは変わらないが)
それでもいい、と思う。
この噛み合わなさも。
このわずかなズレも。
(……悪くはない)
静かな午後。
整えられた応接室の中で。
先ほどとは違う。
ほんの少しだけ、
距離の測り方を思い出した気がした。