騎士団隊長の初恋は、訳あり男装剣士でした

第三話「噛み合わぬままに」

 西離宮の庭は、午後の光に満ちていた。

 柔らかな陽射しが木々の葉を透かし、地面にまだらな影を落とす。

 風は穏やかで、どこか、張り詰めたものをほどくような静けさがあった。

 フェリスは、ひとり庭へ出ていた。

 午前のレッスンを終えたばかりだ。

 姿勢、所作、言葉遣いーー細部まで崩さぬよう求められるそれは、想像以上に神経を使う。

 (……少しだけ)

 休もう、と思った。

 フェリスは、ゆっくりと靴を脱いだ。

 芝生の上に、素足を下ろす。

 (……あ)

 ひんやりとした感触。
 柔らかく、わずかに湿り気を含んだ土の気配。

 その瞬間、ふっと息が抜けた。

 (……森での生活を思い出すな)

 思わず、そう思う。

 (なら)された庭のはずなのに。

 整えられた景色のはずなのに。

 それでも、風と、光と、土の匂いはーー
 
 確かに、あの場所に似ていた。

 フェリスはそのまま、芝の上に腰を下ろしーー

 やがて、そっと身体を倒した。

 空が、広がる。
 
 視界いっぱいに、青。

 木々の葉が揺れ、光がちらちらと揺らめく。

 (……気持ちいい)

 腕を広げる。

 大の字に、力を抜く。

 服のことも、姿勢のこともーー

 何も気にしないまま。

 ただ、そこに在る。

 風が、頬を撫でる。

 髪を揺らす。

 (……ここなら)

 大丈夫だと、思った。

 誰にも見られていない。
 誰にも求められていない。

 ただ、自分でいられる。

 胸の奥に溜まっていたものが、すうっとほどけていく。

 (……少しだけ)

 そう思っただけだった。

 まぶたが、ゆっくりと落ちる。

 光が遠のきーー
 そのまま、意識は静かに沈んでいった。



 

 離宮へ向かうのは、業務の一環のはずだった。

 王宮からの伝達事項。
 形式的な確認。
 それを済ませれば、それで終わる程度の用件。

 ベイルは、回廊を抜けながら小さく息を吐いた。

 (……一度、見ておくか)

 形式的な確認の延長に過ぎない。
 そう自分に言い聞かせ、回廊を進む。
 
 離宮の中は、思いのほか静かだった。

 侍女に声をかける。

 「セレスティア嬢は?」

 「お庭へ出ておられます」

 短く礼を受け、そのまま外へ向かう。

 庭に足を踏み入れる。

 風が、揺れる。

 光が、揺れる。

 その只中でーー

 視線の先に、何かがあった。

 (……あれは)

 
 芝の上に、白。

 最初は、それが「人」だと分からなかった。

 光を含んだ髪が、やわらかく広がっている。

 風にほどけ、陽を弾く。

 風に揺れ、光を弾く。

 細い腕が、無防備に投げ出されていた。

 ひどく現実味がない。

 (……まさか)

 一歩、近づく。

 足音を立てないようにーーではない。

 ただ、そうするのが自然だった。

 ようやく、それが誰なのかを認識する。

 フェリスだった。

 (……寝ているのか)

 すぐそばまで来て、足を止める。

 起こす、という選択はーー

 なぜか、浮かばなかった。

 見下ろす。

 力の抜けた寝顔。
 わずかに緩んだ表情。

 (……無防備すぎだろ)

 小さく、息を吐く。

 わずかに視線を落とし、

 芝の上へと膝を折る。

 そのまま、隣に腰を下ろした。

 触れない距離。

 けれど、遠くはない。

 (……思えば……以前にも、寝顔を見たな)

 あの夜のことが、ふと脳裏をよぎる。

 力の抜けた寝顔を見て、わずかに、肩の力が抜ける。

 (しかし、こう無防備すぎると……心配になるんだが)

 ベイルは、手にしていた書類を軽く整え、代わりに薄い冊子を取り出した。

 ぱらりと、頁をめくる。

 読むともなく、視線を落とす。

 ーーだが。

 視線が気づけば、そこに戻っている。
 
 すぐ隣。

 芝の上で眠るフェリスへ。

 風に髪が揺れ、光が反射する。

 その様子はさながらーー

 (……精霊か)

 かすかに、苦笑が漏れる。

 触れれば、消えてしまいそうな気がした。

 頁をめくる。

 時間が、ゆるやかに流れていく。

 急かす理由はない。

 起こす理由もない。

 ただーー

 (時間が許す限り、傍に……)

 それでいいと、思った。




 
 風が、やわらかく頬を撫でる。

 揺れた髪が、わずかに触れた。

 その感触に、ほんの少しだけ眉が寄る。

 浅い呼吸が、ひとつ。

 指先が、芝を掴むように動いた。

 夢の底が、ゆっくりと浮かび上がる。

 (……風……?)
 
 意識が、まだ重い。

 まぶたの裏に、白い光が滲む。

 もう一度、風が吹いた。

 ゆっくりと、まぶたを開く。

 視界に入ったのは、空ではなかった。

 影。

 光を背にした、輪郭。

 一瞬、思考が止まる。

(……誰……)

 次の瞬間、焦点が合う。

 見上げた先にいたのはーー

 「……ベイル……?」

 声は、かすれていた。

 フェリスは、はっとして息を呑む。

 「……ベイル様?」

 起き上がろうとして、わずかに身体がよろめく。

 まだ夢と現実の境界が、曖昧だった。

 視線を逸らしかけて、止まる。

 近い。

 思っていたよりも、ずっと近い距離にいる。

 一拍遅れて、状況が繋がる。

 芝の感触。

 風。

 自分が横になっていたこと。

 そしてーー

 (……見られていた?)

 「っ……!」

 反射的に身を起こす。

 乱れた髪が、肩を滑り落ちた。

 「……起きたか」

 視線は冊子に落としたまま、言う。

 そこにいるのが当然であるかのように。

 フェリスは、少しだけ目を見開いた。

 (……こんな近くに)

 けれど。

 驚きよりも先に。

 隣にいて、寝顔を見られていたのかと思うと、急に恥ずかしさがこみ上げて来た。

 「……い、いつから、そこに」

 言い終わる前に、少しだけ声がかすれる。

 ベイルは頁をめくる手を止めなかった。

 「さあな」

 素っ気なく、答える。

 「来た時には、もう寝ていた」

 淡々とした声。

 けれどーー

 (……ずっと、ここにいたってこと……?)

 フェリスは、ぐっと言葉を詰まらせる。

 熱が、頬に集まる。

 思わず、身を起こし、乱れた髪を手で押さえた。

 「……起こしてくだされば、よかったのに」

 少しだけ視線を逸らしながら言う。

 ベイルは、そこでようやく冊子から目を上げた。

 フェリスを見る。

 芝の上に座り直し、どこか居心地悪そうにしている姿。

 さっきまでとは違う、取り繕った気配。

 「気落ち良さそうだったからな」

 その一言に。

 フェリスの動きが、ぴたりと止まる。

 「……っ」

 何か言い返そうとしてーー言葉が出ない。

 ベイルは、わずかに目を細める。

 「しかし」
 
 一拍置いて。

 「……あそこまで大胆に昼寝をする令嬢は、そういない」

 かすかに、口元が緩む。

 「……っ」

 図星だった。
 
 言い返せない。

 フェリスは、ぐっと言葉を飲み込み、視線を逸らす。

 「……その、少しだけのつもりで……」

 言い訳が、弱い。
 
 自分でもわかっている。

 ベイルは、小さく息を吐いた。

 一瞬だけ、言葉を選ぶように間を置いて。

 「……無防備すぎる」

 短く、言い切る。

 その声音に、責める色はない。

 だがーー

 軽くもない。

 フェリスの肩が、わずかに強張る。

 ベイルは続ける。

 「以前もそうだったな」

 「……え」

 反射的に顔を上げる。

 「果実酒で寝た時も」

 淡々とした口調。

 「……っ」

 言葉が詰まる。

 ベイルにそう言われ、……王都滞在初日の内々の晩餐での事を思い出す。

 ベイルは、少しだけ視線を落とす。

 芝の上に触れる、フェリスの指先へ。

 「……寝るときは」

 一拍。

 ほんのわずかな間。

 「……せめて、場所は選べ」

 それだけ言う。

 短く。

 簡潔に。

 (……場所は選べ)

 胸の奥で、言葉が引っかかる。

 (……どういう意味?)
 
 ベイルは、すでに何事もなかったように冊子へ視線を戻している。

 頁をめくる音だけが、静かに響く。

 (庭がよくないってこと?)

 (でも、ここは離宮だし)

 (侍女や、限られた者しか入って来れない場所のはず)

 (だから、ここなら大丈夫だろうと思ったんだど……)
 
 フェリスは小さく息をついた。

 「……以後気を付けます」

 ベイルは短く「そうしろ」とだけ返す。

 それ以上は何も言わない。
 
 そのベイルの態度が、妙に引っかかった。

 (……要は、ベイルに見つからなければいいってことかな)

 「……では、次からはベイル様に見つからない場所を選びます」

 ーー静止。

 頁をめくる手が、止まる。

 ベイルがゆっくりと顔を上げた。

 「……なんで、そうなる?」

 声が、少し低い。

 「……え?」

 きょとんとするフェリス。

 ベイルは、数秒、言葉を失う。

 (……違うだろ)

 頭の中で、否定する。

 だがーー

 どう違うのか。

 どう言えばいいのか。

 自分でも、うまく言葉にできない。

 ーー言葉が出てこない。

 「……そういう意味じゃない」
 
 ようやく絞り出す。

 だが、説明が足りない。

 フェリスは、ますます首を傾げる。

 「……では、どういう意味ですか?」

 真っ直ぐな視線。

 悪気は一切ない。

 ベイルは完全に詰まった。

 (……面倒なことになったな)

 小さく息を吐く。

 視線を逸らし、冊子を閉じる。

 数秒の沈黙。

 そしてーー

 「……俺に見つからない場所を選ぶな」

 「……え?」

 一瞬、言葉を切る。
 
 言い直すように。

 「……目の届くところにいろ」

 それは命令の形をしていてーー

 けれど、どこか違っていた。

 「……」

 今度は、フェリスが黙る番だった。

 意味がわからない。

 けれどーー

 その声音は、妙に揺るがない。

 命令に近いのに、圧は強くない。

 ただ、そこにあるだけ。

 フェリスは、少しだけ視線を落とす。

 (……なんだろう)

 (……ひょっとして)

 わずかに、考えて。
 
 (……心配、されている?)

 確信は持てないまま。

 「……わかりました」

 とだけ、フェリスは返した。

 ベイルは、それ以上何も言わなかった。

 ただ一度だけ、視線をフェリスへ向けーー

 すぐに逸らす。
 
 冊子を閉じ、静かに立ち上がった。

 「……そろそろ戻る」

 短く告げる。

 「業務の途中で寄っただけだ」
 
 淡々とした声音。
 
 いつも通りの、騎士としての顔。
 
 フェリスは、わずかに瞬きをする。

 (……あ)

 そこで初めて気づく。

 (仕事中、だったんだ)

 「……お引き留めして、申し訳ありません」

 少しだけ背筋を正して言う。

 ベイルは首を振った。
 
 「問題ない」

 それだけ。

 余計な言葉は続かない。

 ーー沈黙。

 だが、気まずさはない。

 フェリスも、ゆっくりと立ち上がる。

 芝を払うように軽く手を動かし、姿勢を整える。

 「……私も、そろそろ戻らなければ」

 「そうか」

 短い相槌。
 
 それで会話は終わるはずなのにーー

 なぜか、足が止まる。

 互いに、ほんのわずかに。

 言葉を探すような間。

 けれど。

 結局、何も出てこない。

 ベイルは、先に視線を外した。

 「では」

 それだけ言って、踵を返す。

 歩き出す背中。

 迷いのない足取り。

 フェリスは、その後ろ姿を見送る。

 (……仕事中、だったのに)

 (……わざわざ、来てくれたんだ)

 小さく、息を吐く。

 理由はわからないままーー

 それでも、胸の奥がほんの少しだけあたたかい。
 
 離宮へと続く道を、ゆっくりと歩き出す。

 午後の光が、やわらかく差し込んでいた。
 
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