騎士団隊長の初恋は、訳あり男装剣士でした
 第三騎士団本部。

 「……以上で、本日の報告は終わりです」

 書類を閉じた副官が顔を上げる。

 その視線の先で、ベイルはすでに立ち上がっていた。

 「ご苦労。問題はないな」

 「は、はい。ですがーー」

 副官が言い終わる前に、

 「後は副隊長に引き継いでくれ」

 さらりと言い放つ。

 「……え?」

 一瞬、言葉の意味が理解できない。

 「本日はこれで失礼する」

 迷いのない声音。

 そしてそのまま、踵を返す。

 普段なら、細部まで確認し、追加の指示を出すはずの男が、だ。

 「隊長⁉」

 別の部下が小声で囁く。

 「……今日、やけに早くないか?」

 「いや、それより」

 副官は、去っていく背中を見つめながら、ぽつりと呟いた。

 「……なんか、機嫌よくないか?」

 一瞬の沈黙。

 「……ああ」

 「……ああ」

 妙に納得した空気が流れる。

 「……珍しいな」

 誰かが小さく付け足した。

 ーーと、そこへ。

 扉が開く音がした。

 「遅れた」

 低くい声と共に、副隊長が姿を現す。

 「副隊長!」
 
 副官が安堵したように声を上げる。

 「ちょうど良かった。隊長がーー」

 「いないな」

 言葉を遮るように、副隊長が言う。

 一瞬で室内を見渡し、状況を把握する。

 「……帰ったのか」

 「は、はい。その……」

 副官は言いにくそうに続ける。

 「後は、副隊長に任せると」

 沈黙。

 副隊長の眉が、ぴくりと動いた。

 「……は?」

 低い声。

 副隊長は深く息を吐いた。

 「…了解した」

 小さく、視線を落とす。

 「……理由は、聞くまでもないな」




 離宮へ続く回廊。

 歩みは早い。

 だが、乱れてはいない。

 むしろ、いつも通りーー
 そう見えるように、整えられている。

 ふと、先日のフェリスの様子が(よぎ)る。

 木陰。
 柔らかな陽の下で、無防備に眠っていた姿。

 (……あの様子では)

 疲労がないとは言い切れない。
 環境の変化もある。

 (少し様子を見に行くだけだ)

 それだけだ。

 別に、特別な意味はない。

 ……ない、はずだ。

 木立を抜け、離宮が見えてくる。
 わずかに、足が速くなった。

 侍女に案内され、ベイルは応接室へ通される。

 淡い橙色の陽の光が長く床へ伸び、白いレースのカーテンを静かに透かしている。
 昼の明るさはすでにやわらぎ、室内には、どこか落ち着いた静けさが満ちていた。

 やがて、扉が開く。

 「ベイル様……お仕事はもう終えられたのですか?」

 ベイルは、その姿を見てわずかに目を細めた。

 「ああ……早めに切り上げてきた」

 「そう、ですか」

 向かいに腰を下ろすフェリスへ、軽く頷く。

 侍女が静かに茶器を置き、音もなく下がっていく。

 一瞬の静寂。

 ベイルはカップに手を伸ばし、立ちのぼる香りをひとつ吸い込んだ。

 向かいでは、フェリスも静かにカップを手に取っている。

 小さく、器が触れ合う音。

 それだけの間が、しばし落ちる。

 ベイルが先に、口を開いた。

 「……ここでの暮らしには、慣れてきたか」

 自然な調子で、問いを落とす。
 
 「……はい」

 フェリスは小さく頷く。

 再び、静けさ。

 ベイルは一口、茶を含む。

 (……顔色は、悪くなさそうだが)

 視線を上げる。

 「体調は」

 今度は、やや間を置いてから。

 「問題ないか」

 「はい。問題ありません」

 変わらない答え。

 だがーー

 ベイルは、わずかに視線を細めた。

 (……問題ない、か)

 カップを置く音が、やけに小さく響く。

 一度、庭で見た姿がよぎる。

 「……では、何か、欲しいものはないか」

 言葉を選ぶように続ける。

 「遠慮はいらない」
 
 その言葉に、
 フェリスの視線が、ほんの少し揺れた。

 「……」

 カップの縁に触れていた指先が、わずかに止まる。

 言うべきか、迷っている。

 そんな沈黙。

 ベイルは、何も言わず待った。

 やがてーー

 「……あの」

 小さく、声が落ちる。

 「ん?」

 「では……ひとつ、お願いが……」

 「言ってみろ」

 間を置かず、応じる。

 フェリスは一瞬だけ視線を伏せる。

 それから、意を決したように顔を上げた。

 「……騎士団の訓練場で」
 
 ベイルの動きが、わずかに止まる。

 「また、騎士の方と……」

 言葉を選ぶように、間が空く。

 「……手合わせを、お願いできないでしょうか」

 沈黙。

 室内に、時計の針の音だけが静かに響く。

 ベイルはーー

 完全に、固まっていた。

 「……」

 「……」

 フェリスは、不思議そうに首を傾げる。

 「……ベイル様?」
 
 返事がない。

 数秒。

 いや、体感ではもっと長い沈黙の後ーー

 「…………いや」

 ようやく、声が出た。

 低く、抑えられた声。

 「それは……」

 言葉が、続かない。

 (なぜ、そうなる)

 頭の中で、何かが軋む。

 (他の騎士と?)

 一度、記憶が蘇る。

 訓練場。

 あの時。

 剣を交えていた男とフェリス。

 ーー距離が、近い。

 (……駄目だろう)
 
 即座に浮かぶ感情。
 
 だが、同時に、

 (……なぜ、駄目だ)

 理性が問う。

 正当な理由が、出てこない。

 「……あの」

 フェリスが、少しだけ不安そうに声をかける。

 その声で、我に返る。

 「……いや」

 短く息を吐く。

 「……理由を、聞いてもいいか」

 なんとか、形を整えた問い。

 フェリスは、こくりと頷いた。

 「一人での訓練だと、わかりにくいことがあって」

 静かな声。

 「間合いや、呼吸や……そういうものが」

 「……」

 「実際に打ち合わないと、掴みにくくて」

 まっすぐな説明。

 そこに、他意はない。

 ただ、剣の話だった。

 「……」

 ベイルは、何も言えない。

 (……それは、正しい)

 理屈は理解できる。

 完全に、正論だ。

 「……だから」
 
 フェリスは少しだけ言いにくそうに続ける。

 「もし可能なら、と」

 そこで言葉を切る。

 ベイルを、見る。

 その目は、ただ真剣だった。

 ーー剣に対して。

 「……」

 沈黙。

 そして、

 ベイルはゆっくりと、目を閉じた。

 (……落ち着け)

 一度、思考を整理する。

 フェリスの願いは、剣士として極めて真っ当だ。
 実践感覚を維持するには、相手が必要になる。

 (むしろ、鍛錬を制限する方が不自然だ)

 実際に刃を交えなければ、掴めないものはある。
 間合い。
 呼吸。
 圧。

 それは、俺自身が誰より理解している。

 だがーー

 それは、剣士や騎士であればの話だ。

 婚約者として考えるならーー
 危険な訓練は減らすべきかもしれない。

 貴族令嬢としてなら、なおさら。

 傷を負う可能性。
 他の騎士との接触。
 不用意な噂。

 止める理由なら、いくらでも並べられる。

 しかしーー

 彼女は、剣と共に生きて来た人間でもある。

 森での日々も。
 龍へ向かったあの背中も。
 今の彼女を形作っているものは、間違いなく“剣”だ。

 それを。

 己の感情だけで奪うのか。

 「……」

 小さく、息を吐く。

 却下する理由はーーある。
 
 だが、それは。

 (……ほとんどが私情だ)

 はっきりと、理解してしまう。

 「……」

 静かに、目を開く。

 フェリスを見る。

 そしてーー

 「……条件がある」

 低く、言った。
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