騎士団隊長の初恋は、訳あり男装剣士でした
 ベイルの屋敷の応接間は、西離宮とは違う意味で整っていた。
 生活の気配がある。

 だが、それすらも、長く積み重ねられた“形”の中に収まっている。

 フェリスは、背筋を伸ばして席に着いた。

 ——セレスティアとして、振る舞う。
 その意識を、静かに整える。

 「まあ、いらっしゃい」

 明るく、柔らかな声だった。

 顔を上げると、女性が一人、穏やかな笑みを浮かべて立っている。
 ベイルにどこか似た面差し。
 だが、その空気はずっと柔らかい。

 「母だ」

 ベイルの短い紹介。

 フェリスはすぐに立ち上がり、礼を取る。

 「お初にお目にかかります。セレスティアと申します」

 淀みのない所作。整えられた声音。

 それを見て、女性はふっと笑った。

 「あらまあ、そんなにかしこまらなくていいのに」

 一歩、距離を詰めるような柔らかさ。 

 「ライザよ。よろしくね、セレスティア様」

 ーー距離が、近い。
 
 想定していた“対面”とは違う。

 フェリスは一瞬だけ呼吸を整えた。

 「……よろしくお願いいたします。ライザ様」

 わずかに間を置いて、応じる。

 そのやり取りを、ライザは楽しそうに見ていた。

 席に戻る。
 その瞬間——

 「兄様の婚約者様ですよね?」

 横から、ぱっと声が差し込む。

 視線を向けると、年の近い華やかな女性が身を乗り出していた。

 「妹のエレノアです」

 にこやかに名乗り、いたずらっぽく笑う。

 「お話は聞いてます。東方の剣を使うんですって?」

 間髪入れない。

 フェリスは一瞬だけ間を置き、

 「……はい」

 短く答える。

 「わあ、一度見てみたいです。……あ、でも叱られますね、こういうのは」

 軽く笑って肩をすくめる。
 場を理解したうえでの軽やかさ。

 ライザがくすくすと笑った。

 「ごめんなさいね、この子、こんな感じで……」

 「いえ……」

 否定は口にするが、わずかに呼吸が乱れる。

 ——距離が近い。
 西離宮とは、明らかに違う空気。

 紅茶が運ばれてくる。

 フェリスはカップに手を添えた。
 その一つ一つの動作を、崩さないように意識する。

 「ねえ、セレスティア様」

 ライザが穏やかに声をかける。

 「ベイルとは、どんなお話をされるの?」

 カップを持つ指先が、ほんのわずかに止まる。

 ーー話?

 フェリスの思考が、一瞬だけ空白になる。

 ベイルと、話したことがあっただろうか。

 思い返す。

 剣のこと。
 任務のこと。
 必要なやり取り。

 ーーそれ以外に。

 「……」

 わずかな沈黙。

 「……手合わせのことが、多いかと」

 選んだのは、最も齟齬(そご)のない答えだった。

 だがーー

 それは、本当に“話している”と言えるのだろうか。
 
 フェリスの胸の内に、かすかな違和感が残る。
 
 「ああ、やっぱり」

 ライザは楽しそうに笑った。

 「この子、昔から剣のことばかりでね」

 くすりと笑い、続ける。

 「本当にねえ。この子、あなたが来るまで全然だったのよ?」

 さらりと言う。

 「兄も結婚して、エレノアも婚約しているのに、この子だけずっとーー」

 「母上」

 ベイルが決まり悪そうに制する。

 だがライザは気にしない。

 「剣と結婚するんじゃないかって思ったくらいよ?」

 くすくすと笑う。

 エレノアが頷く。

 「思ってました」

 即答。

 フェリスは、わずかに瞬きをした。

 ーーベイルは、そんな風に見られていたのか。

 ベイルは何も言わない。
 ただ、わずかに視線を逸らす。

 言い返さないあたりに、諦めにも似た静けさが滲んでいた。

 その一瞬が、妙に人間らしく見えた。

 空気が、少しだけ緩む。

 「そういえば」

 エレノアが、ぱっと顔を上げた。

 「セレスティア様って兄様とはどんな感じなんですか?」

 無邪気な声音。

 だが、逃げ場のない問い。

 「どんな、とは……?」

 「ええと、例えば……」

 少し考えてから、楽しそうに続ける。

 「私の婚約者はですね、会うたびに手を取ってくださるんです」

 さらりと言う。

 「危ないからって、階段では必ずエスコートしてくださいますし」

 くすくすと笑う。

 「この前なんて、ドレスの裾を踏まないようにってーー」

 「エレノア」

 ベイルの声が、わずかに低くなる。

 だがーー止まらない。

 「あと、贈り物もよくいただきますし……あ、でもこれは普通ですよね?」

 にこりと、フェリスを見る。

 ーー普通。

 その言葉が、静かに落ちた。

 フェリスの思考が、止まる。

 手を取られたことはある。
 エスコートされたことも。
 贈り物も、お礼としてーー一度だけ。

 でも、それは。

 ーー形式的に必要だったから。

 エレノアの言うものとは、どこか違う気がする。

 「……」

 「兄様はどうなんですか?」

 無邪気な追撃。


 ベイルはカップに手を伸ばしかけてーーわずかに止めた。

 
 視線がフェリスに集まる。

 フェリスは、わずかに間を置き、

 「……そのようなことは」

 言葉を選ぶ。

 「特には」

 沈黙が、一拍。

 「え?」

 エレノアが、目を丸くする。

 「本当にですか?」

 悪気のない、純粋な驚き。

 フェリスの中に、わずかな違和感が生まれる。
 
 ーーこれは、普通ではないのか。

 「……必要が、ありませんので」

 そう答える。

 だがそれが、

 “説明”になっていないことは分かっていた。

 フェリスの言葉に、ベイルの眉がほんのわずかに寄る。

 否定できない。
 そうしてこなかったのはーー自分だ。
 まだ……踏み込み過ぎるべきではないと、思っていた。

 
 「……そう、なんですか?」

 エレノアは首を傾げる。

 そして、少しだけ言葉を選びながら続けた。

 「でも、そういうのって……」

 「必要かどうか、というよりーー」

 「一緒にいたいから、とか」

 「喜んで欲しいから、とか」

 「そういう理由で、するものではありません?」

 わずかな間。

 「……兄様、不器用ですけど」

 「そのくらいは、できる方だと思っていました」

 ベイルは何も言わない。

 ただ、視線を外す。

 ほんの一瞬。
 だが、確かにーー気まずそうに。

 その、沈黙が、この場で一番雄弁だった。

 ライザが、その様子を見てくすりと笑う。

 「まあまあ」

 柔らかく、空気を整える。

 「形はそれぞれですもの」

 だがーー

 「でも、少しくらいはあった方が楽しいと思いますけど」

 エレノアが無邪気に言い切る。

 その言葉が、静かに残る。

 フェリスはカップへと視線を落とした。

 ーー分からない。

 社交界で積むはずの経験を、森で過ごしてきた自分には……。

 何が、どこまでが、そいうものなのか。

 近づくことも、言葉を交わすことも。

 どこまでが自然で、どこからが違うのか。

 測るものが、自分の中にない。

 ーー知らない。

 ただ一つ、分かるのはーー

 自分とベイルのあいだにあるものはーー

 ここで語られているそれとは、違う。

 違う……はず。

 「で、いつ正式に婚約の発表をするの?」

 ライザの声が、軽やかに落ちる。

 「社交界にも、そろそろお知らせしないとね」

 フェリスの指先が止まる。

 「母上、それはまだ……」

 ベイルが低く返す。

 だが、ライザは気にしない。

 「だって、今までずっとそうしたことに関心がなかった貴方が」

 「ようやくその気になるような相手を見つけたんですもの」

 「こんなに嬉しいことはないわ」

 さらりと告げる。

 「準備は進めていいでしょう?」

 軽やかだが、逃がさない。

 「……それは……」

 ベイルが、ほんのわずかにフェリスへ視線を向ける。

 「そう?」

 ライザは首を傾げ、楽し気に続けた。

 「じゃあ、婚約披露の茶会くらいは開きましょうか」

 さらりと。だが、明確に。

 「正式な発表と合わせてもいいし、その前でもいいわね」

 場の空気が、わずかに変わる。

 軽さのまま、現実が入り込む。

 フェリスの呼吸が、ほんのわずかに乱れた。

 ーー婚約披露。

 言葉だけが、先に形を持つ。

 エレノアがぱっと顔を輝かせる。

 「それは、素敵ですね!」

 「あなたは楽しむ側でしょう」

 「もちろんです」

 即答。

 「……いや、しかし」

 ベイルが困惑気味に言う。

 「いいじゃない。せっかくなんだから」

 そして、ライザはふっとフェリスに視線を向ける。

 「婚約とは不思議なものでね」

 「形だけでも、少しずつ意味が追いついてくることもありますから」

 「……そういうもの、なのですか?」

 フェリスが、わずかに目を丸くした。

 「ええ」

 ーー分からない。

 婚約者として、自分はどうあるべきなのか……まだ。

 それでも。

 このままではいられないことだけは、分かる。
 
 ライザは満足そうに微笑んだ。

 空気が、再び柔らぐ。

 だがーー

 先ほどまでとは違う。

 言葉にされた未来が、静かにその場に残っていた。
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