騎士団隊長の初恋は、訳あり男装剣士でした
人の流れの中で、ベイルは次の来客に呼び止められた。
「少し失礼する」
セレスティアに短くそう告げ、手を離す。
離れる直前、ほんのわずかに、指先に力が残った。
意図したものではない。だが、それだけで十分だった。
視線は一度だけセレスティアに向けられ、そのまま人の輪へ戻っていく。
セレスティアは、その背を見送った。
人の流れに押されるように、ゆるやかに歩みを進める。
やがて、喧騒から少しだけ外れた場所へと足が向いた。
ざわめきが遠のき、庭からの風だけが静かに通り抜ける。
ーー少し前まで、そこにあった温度が、ゆっくりと離れていく。
「……少し、よろしいかしら」
背後から、静かな声がかかった。
セレスティアはわずかに肩を揺らし、振り返る。
そこには、淡い光を受けて柔らかく輝く、赤みを帯びた亜麻色の髪を、品よく結い上げた令嬢が立っていた。
落ち着いた佇まいと、揺るぎのない気品。
ーーその人物は、ロザリーだった。
「先ほどはご挨拶もなく、失礼致しました」
「ヴァレンティア侯爵家のロザリーと申します」
優雅に、一礼する。
顔を上げ、穏やかな微笑をたたえたまま、言葉を続ける。
「……この度は、誠におめでとうございます」
「とても穏やかで、素敵なひとときですわね」
視線を軽く庭へ流す。
花々と談笑の気配ーー場そのものを一度共有する。
それから、ゆるやかに視線を戻す。
「……セレスティア様は」
「こうしたお席には、あまりお慣れではございませんの?」
やわらかな声音。
気遣うようでいて、さりげなく輪郭をなぞる問い。
「けれど……」
ほんのわずかに首を傾げる。
「不思議と、どこか落ち着いていらっしゃる」
一拍。
「とても、印象的な方だと、自然と目に留まりましたの」
やわらかな声音。探るようでいて、決して踏み込みすぎない距離。
一拍、置いて。
「……実は以前、王宮の庭園で」
「セレスティア様に、とてもよく似た方を、お見かけしたことがありまして」
視線をまっすぐに向ける。
責める響きはない。
ただ、確かめるように。
「その際、その方はベイル様とご一緒だったのですが……」
わずかに間を置き、微笑を崩さないまま。
「……私の思い違いかしら」
逃げ道を残す。
一瞬だけ、沈黙。
それから、セレスティアは静かに頷く。
「……いいえ」
視線をそらさずに。
「その時は、“フェリス”と名乗っておりました」
それだけを言う。
一瞬だけ、ロザリーが目を見開く。
だがすぐに、その意味を理解する。
「……そうでしたの」
それ以上、踏み込まない。
ただ一言。
「どちらのお名前も、よくお似合いですわ」
柔らかい声音。
けれど、その奥にわずかな思案が滲む。
一拍。
ロザリーは、静かに息を整える。
「……あの時」
視線を、ほんの少しだけ逸らす。
「とても、自然に、ベイル様の隣にいらっしゃいましたものね」
責める響きではない。
ただ、事実をなぞるように。
一拍。
「ですからーー少し、驚いてしまって」
そこで初めて、わずかに笑みを浮かべる。
「……そんなに、驚かれることなのですか?」
静かに返された言葉。
けれど、その声音には棘も含みもない。
ただ、純粋な疑問だけが置かれていた。
ロザリーは、セレスティアのその言葉にわずかに目を見開く。
ーー試すような響きではない。
本当に、分かっていないのだと。一拍遅れて、そう理解する。
「……あなた……ご存じないの?」
「何を、でしょうか」
セレスティアは、わずかに首を傾げる。
その仕草はあまりにも自然で、作為も、駆け引きも感じられない。
ただ、問いの意味を測りかねているだけのーー
まっすぐな視線。
ロザリーは、一瞬だけ言葉を選び、それからあえて軽やかに言った。
「ベイル様のことですわ」
一拍。
「社交界ではーーそれなりに人気のある方ですのよ」
「ですのに、女性にはあまり関心をお示しにならなくて……」
一拍、置く。
「これまで、そうしたお相手もいらっしゃらなかったのです」
静かに、セレスティアを見る。
「……先ほどのこと、覚えていらして?」
やわらかく促すように。
「ご挨拶にいらしていたご令嬢方ーー」
ほんのわずかに間を置く。
「皆さま、ベイル様に想いを寄せていらした方々ですわ」
セレスティアは、わずかに目を瞬かせた。
相手の言葉を、そのまま受け止めるように。
「……そう……なのですか」
わずかに声を落とす。
視線は逸らさないまま。
「知りませんでした……」
その一言に、ロザリーの表情が止まる。
ーー沈黙が落ちる。
「……ベイル様のお母様からは、剣一筋で、これまで婚約者もいらっしゃらなかったとは伺いましたが」
言葉を選ぶ様子もなく、続ける。
「……まさか、ご令嬢方からそこまで慕われていらした方だったとは」
わずかに首を傾げる。
「存じ上げませんでした」
わずかにロザリーが目を細める。
探るようにではなくーー
確かめるように、目の前の令嬢を見る。
「……あなた」
わずかに、呆れを含んだ声音。
ロザリーは、セレスティアの顔を見つめる。
作っていない。
計算もない。
ただ、本当にーー知らなかっただけ。
わずかに意外そうに目を細め、それからすぐに、何かに思い至ったように表情をやわらげる。
「ーーああ、そういえば。……隣国のご出身でしたわね」
小さく頷き、さらに言葉を重ねる。
「それに……社交界とは、あまりにも縁のない暮らしをなさっていたと伺っていますわ」
責めるでもなく、ただ事実を確かめるような、静かな声音。
「でしたら、ご存じないのも無理ありませんわね」
やがて。
(ああーー)
胸の奥で、何かが静かにほどける。
華やかな言葉も、駆け引きも、距離の測り方も知らない。
けれどーー
(だから、なのね)
ベイルがあの時、王宮の庭園で見せた、あの自然さ。
誰に対しても崩さなかった一線を、まるで初めから存在しなかったかのように越えさせた理由。
「そういうことでしたの」
納得するように、ゆっくりと頷く。
「……適わない、ということですわね」
ぽつり、と。
だがその声音に、悔しさはほとんど滲まない。
代わりにあるのは、理解と、ほんのわずかな苦笑。
ロザリーは、ゆっくりと視線を伏せた。
「わたくしたちは皆ーー」
小さく息を吐く。
「“どう近づくか”ばかりを考えておりましたの」
視線を上げる。
その瞳はもう、揺れていない。
「けれど、あなたは違う」
断言するでもなく、ただ事実を置くように。
「近づこうともなさらないのに」
「気がつけば、隣に立っている」
一拍。
「……そういうこと、なのでしょうね」
静かな結論。
それは敗北の宣言ではない。
ただ、自分の見ていた世界の限界を、正しく受け入れた言葉。
ロザリーは、ふっと微笑んだ。
「安心いたしましたわ」
やわらかな声。
「少なくともーー」
わずかに肩の力を抜く。
「“誰でもよい”わけではなかったのだと、分かりましたもの」
ほんの少しだけ、本音が混じる。
それでも、その表情は穏やかだった。
「……本当に、面白い方ね」
ほんのわずかに、目を細める。
「……お引き留めしてしまいましたわね」
「また、お会いしましょう」
一礼の後ーー
ロザリーは振り返らず、その場を去っていく。
その背を見送りながら。
セレスティアは、ほんの少しだけ考える。
(ベイルはーー)
自分の知らない場所で、どんな風に見られていたのか。
そして。
(それでも、私を選んだ)
その事実だけが、静かに残る。
セレスティアは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
何を言われたのか、すべて理解できたわけではない。
けれどーー
(どうして……)
胸の奥に、小さな違和感が残っている。
責められたわけではない。
敵意を向けられたわけでもない。
むしろ、最後の微笑みは穏やかで、どこか安堵すら滲んでいた。
それなのに。
(あの人は、何を分かったの……?)
自分よりも、ずっと先に。
何かを見届けたような目だった。
そんな感覚だけが、残る。
人の流れが、ゆるやかに戻る。
その中でーー
小さく、押さえた声が後ろで交わされる。
「ベイル様……ご婚約されても、相変わらず素敵ですわね」
「本日はいっそう凛々しくていらっしゃいますわ」
セレスティアは、ほんのわずかに視線を巡らせた。
気づけばーー
いくつもの視線が、ひとつの場所へと向けられている。
露骨ではない。
けれど、確かに。
少し離れた人の輪の中。
ベイルの姿は、すぐに見つかった。
変わらない表情で、誰かの言葉に応じている。
その立ち姿は、特別に誇示するでもなく、ただそこにいるだけで、人を引き寄せていた。
(……本当だ)
ロザリーの言葉が、遅れて胸に落ちる。
(……気づかなかった)
ほんのわずかに、視線を伏せる。
あの人が、どれほどの視線を集める存在なのか。
どれほど、多くの者に望まれていたのか。
ーーそれでも。
ゆっくりと顔を上げる。
その胸の奥にあるのは、戸惑いではなくーー
言葉にならないままの、静かな確信だった。
(……分からないけれど)
それでもいい、と。
気づけば、足は自然とベイルの居る方へと、向いていた。
ーーけれど。
その一歩は、なぜか踏み出されないまま。
わずかな逡巡。理由は、自分でもわからない。
ただ、その場に、静かに立っていた。
「少し失礼する」
セレスティアに短くそう告げ、手を離す。
離れる直前、ほんのわずかに、指先に力が残った。
意図したものではない。だが、それだけで十分だった。
視線は一度だけセレスティアに向けられ、そのまま人の輪へ戻っていく。
セレスティアは、その背を見送った。
人の流れに押されるように、ゆるやかに歩みを進める。
やがて、喧騒から少しだけ外れた場所へと足が向いた。
ざわめきが遠のき、庭からの風だけが静かに通り抜ける。
ーー少し前まで、そこにあった温度が、ゆっくりと離れていく。
「……少し、よろしいかしら」
背後から、静かな声がかかった。
セレスティアはわずかに肩を揺らし、振り返る。
そこには、淡い光を受けて柔らかく輝く、赤みを帯びた亜麻色の髪を、品よく結い上げた令嬢が立っていた。
落ち着いた佇まいと、揺るぎのない気品。
ーーその人物は、ロザリーだった。
「先ほどはご挨拶もなく、失礼致しました」
「ヴァレンティア侯爵家のロザリーと申します」
優雅に、一礼する。
顔を上げ、穏やかな微笑をたたえたまま、言葉を続ける。
「……この度は、誠におめでとうございます」
「とても穏やかで、素敵なひとときですわね」
視線を軽く庭へ流す。
花々と談笑の気配ーー場そのものを一度共有する。
それから、ゆるやかに視線を戻す。
「……セレスティア様は」
「こうしたお席には、あまりお慣れではございませんの?」
やわらかな声音。
気遣うようでいて、さりげなく輪郭をなぞる問い。
「けれど……」
ほんのわずかに首を傾げる。
「不思議と、どこか落ち着いていらっしゃる」
一拍。
「とても、印象的な方だと、自然と目に留まりましたの」
やわらかな声音。探るようでいて、決して踏み込みすぎない距離。
一拍、置いて。
「……実は以前、王宮の庭園で」
「セレスティア様に、とてもよく似た方を、お見かけしたことがありまして」
視線をまっすぐに向ける。
責める響きはない。
ただ、確かめるように。
「その際、その方はベイル様とご一緒だったのですが……」
わずかに間を置き、微笑を崩さないまま。
「……私の思い違いかしら」
逃げ道を残す。
一瞬だけ、沈黙。
それから、セレスティアは静かに頷く。
「……いいえ」
視線をそらさずに。
「その時は、“フェリス”と名乗っておりました」
それだけを言う。
一瞬だけ、ロザリーが目を見開く。
だがすぐに、その意味を理解する。
「……そうでしたの」
それ以上、踏み込まない。
ただ一言。
「どちらのお名前も、よくお似合いですわ」
柔らかい声音。
けれど、その奥にわずかな思案が滲む。
一拍。
ロザリーは、静かに息を整える。
「……あの時」
視線を、ほんの少しだけ逸らす。
「とても、自然に、ベイル様の隣にいらっしゃいましたものね」
責める響きではない。
ただ、事実をなぞるように。
一拍。
「ですからーー少し、驚いてしまって」
そこで初めて、わずかに笑みを浮かべる。
「……そんなに、驚かれることなのですか?」
静かに返された言葉。
けれど、その声音には棘も含みもない。
ただ、純粋な疑問だけが置かれていた。
ロザリーは、セレスティアのその言葉にわずかに目を見開く。
ーー試すような響きではない。
本当に、分かっていないのだと。一拍遅れて、そう理解する。
「……あなた……ご存じないの?」
「何を、でしょうか」
セレスティアは、わずかに首を傾げる。
その仕草はあまりにも自然で、作為も、駆け引きも感じられない。
ただ、問いの意味を測りかねているだけのーー
まっすぐな視線。
ロザリーは、一瞬だけ言葉を選び、それからあえて軽やかに言った。
「ベイル様のことですわ」
一拍。
「社交界ではーーそれなりに人気のある方ですのよ」
「ですのに、女性にはあまり関心をお示しにならなくて……」
一拍、置く。
「これまで、そうしたお相手もいらっしゃらなかったのです」
静かに、セレスティアを見る。
「……先ほどのこと、覚えていらして?」
やわらかく促すように。
「ご挨拶にいらしていたご令嬢方ーー」
ほんのわずかに間を置く。
「皆さま、ベイル様に想いを寄せていらした方々ですわ」
セレスティアは、わずかに目を瞬かせた。
相手の言葉を、そのまま受け止めるように。
「……そう……なのですか」
わずかに声を落とす。
視線は逸らさないまま。
「知りませんでした……」
その一言に、ロザリーの表情が止まる。
ーー沈黙が落ちる。
「……ベイル様のお母様からは、剣一筋で、これまで婚約者もいらっしゃらなかったとは伺いましたが」
言葉を選ぶ様子もなく、続ける。
「……まさか、ご令嬢方からそこまで慕われていらした方だったとは」
わずかに首を傾げる。
「存じ上げませんでした」
わずかにロザリーが目を細める。
探るようにではなくーー
確かめるように、目の前の令嬢を見る。
「……あなた」
わずかに、呆れを含んだ声音。
ロザリーは、セレスティアの顔を見つめる。
作っていない。
計算もない。
ただ、本当にーー知らなかっただけ。
わずかに意外そうに目を細め、それからすぐに、何かに思い至ったように表情をやわらげる。
「ーーああ、そういえば。……隣国のご出身でしたわね」
小さく頷き、さらに言葉を重ねる。
「それに……社交界とは、あまりにも縁のない暮らしをなさっていたと伺っていますわ」
責めるでもなく、ただ事実を確かめるような、静かな声音。
「でしたら、ご存じないのも無理ありませんわね」
やがて。
(ああーー)
胸の奥で、何かが静かにほどける。
華やかな言葉も、駆け引きも、距離の測り方も知らない。
けれどーー
(だから、なのね)
ベイルがあの時、王宮の庭園で見せた、あの自然さ。
誰に対しても崩さなかった一線を、まるで初めから存在しなかったかのように越えさせた理由。
「そういうことでしたの」
納得するように、ゆっくりと頷く。
「……適わない、ということですわね」
ぽつり、と。
だがその声音に、悔しさはほとんど滲まない。
代わりにあるのは、理解と、ほんのわずかな苦笑。
ロザリーは、ゆっくりと視線を伏せた。
「わたくしたちは皆ーー」
小さく息を吐く。
「“どう近づくか”ばかりを考えておりましたの」
視線を上げる。
その瞳はもう、揺れていない。
「けれど、あなたは違う」
断言するでもなく、ただ事実を置くように。
「近づこうともなさらないのに」
「気がつけば、隣に立っている」
一拍。
「……そういうこと、なのでしょうね」
静かな結論。
それは敗北の宣言ではない。
ただ、自分の見ていた世界の限界を、正しく受け入れた言葉。
ロザリーは、ふっと微笑んだ。
「安心いたしましたわ」
やわらかな声。
「少なくともーー」
わずかに肩の力を抜く。
「“誰でもよい”わけではなかったのだと、分かりましたもの」
ほんの少しだけ、本音が混じる。
それでも、その表情は穏やかだった。
「……本当に、面白い方ね」
ほんのわずかに、目を細める。
「……お引き留めしてしまいましたわね」
「また、お会いしましょう」
一礼の後ーー
ロザリーは振り返らず、その場を去っていく。
その背を見送りながら。
セレスティアは、ほんの少しだけ考える。
(ベイルはーー)
自分の知らない場所で、どんな風に見られていたのか。
そして。
(それでも、私を選んだ)
その事実だけが、静かに残る。
セレスティアは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
何を言われたのか、すべて理解できたわけではない。
けれどーー
(どうして……)
胸の奥に、小さな違和感が残っている。
責められたわけではない。
敵意を向けられたわけでもない。
むしろ、最後の微笑みは穏やかで、どこか安堵すら滲んでいた。
それなのに。
(あの人は、何を分かったの……?)
自分よりも、ずっと先に。
何かを見届けたような目だった。
そんな感覚だけが、残る。
人の流れが、ゆるやかに戻る。
その中でーー
小さく、押さえた声が後ろで交わされる。
「ベイル様……ご婚約されても、相変わらず素敵ですわね」
「本日はいっそう凛々しくていらっしゃいますわ」
セレスティアは、ほんのわずかに視線を巡らせた。
気づけばーー
いくつもの視線が、ひとつの場所へと向けられている。
露骨ではない。
けれど、確かに。
少し離れた人の輪の中。
ベイルの姿は、すぐに見つかった。
変わらない表情で、誰かの言葉に応じている。
その立ち姿は、特別に誇示するでもなく、ただそこにいるだけで、人を引き寄せていた。
(……本当だ)
ロザリーの言葉が、遅れて胸に落ちる。
(……気づかなかった)
ほんのわずかに、視線を伏せる。
あの人が、どれほどの視線を集める存在なのか。
どれほど、多くの者に望まれていたのか。
ーーそれでも。
ゆっくりと顔を上げる。
その胸の奥にあるのは、戸惑いではなくーー
言葉にならないままの、静かな確信だった。
(……分からないけれど)
それでもいい、と。
気づけば、足は自然とベイルの居る方へと、向いていた。
ーーけれど。
その一歩は、なぜか踏み出されないまま。
わずかな逡巡。理由は、自分でもわからない。
ただ、その場に、静かに立っていた。