シンママの隣に越して来たエリート経営者は元カレです
第一話
CDプレイヤーから流れている歌のお姉さんの明朗な歌声と、園児達の甲高いお喋りが保育室のあちらこちらから聞こえてくる。ここはいつ訪れても賑やかで活気に溢れた空間だ。別の部屋からは乳児がグズり泣いているし、そうかと思えば元気が有り余っている子供達が廊下を駆け回っていた。
私、大槻小春は息子の登園作業のために園リュックを手に持ち、保育室内をウロウロと歩き回る。年少になったばかりの息子、綾斗はまだ一人では朝の準備なんてできない。低いテーブルの上に並べられている出席シールの中から自分の好きな物を選んで、それをゆっくりと帳面に貼り付けている。
「綾斗、今日はママ、少し急がないといけないから、これを片付けたら行くね」
ループ付きタオルを指定場所に引っ掛けて、コップとお箸をカゴに入れていく。着替え一式の入ったビニール袋と小さなリュックをロッカーへ突っ込んでから、息子がシールを貼り終わった帳面を覗き見ると、まだ一度もお休みしていないから今月のページはチューリップのシールで満開だ。
綾斗の頭を優しく撫でてから「今日も頑張ってね」と声を掛けて保育室を出る。部屋の前ではこの春に入園したばかりの女児がイヤイヤと首を横に振って泣きながら母親の太腿にしがみ付いていた。
「おはようございます……」
こういう時、周りが余計な声掛けをすると悪循環になることもある。私は保護者に向かって小声で挨拶と会釈だけをしてその横を通り過ぎた。他の親達もみんな心の中では「大変だ……」とか「うちの子もそうだったな」とか考えてても、見て見ぬふりをしてあげている。あれは大抵の親子が通る道なのだから仕方ない。
――綾斗なんて、私が黙って出てっても平然としてるけどね……
シールを貼り終えると一目散に玩具の入ったボックスへ向かった息子。生後六か月から通っている保育園は、息子の日常にすっかり馴染んでしまっている。それが良いのか悪いのかは分からないけれど、シングルマザーな私には保育園以外に頼れる場所なんてない。
駐輪場に停めていたママチャリを漕いで、私は勤務先へと向かう。途中、綾斗と同じ帽子とリュックで歩く親子にすれ違って挨拶を交わしたが、学年は違うから名前までは思い出せなかった。
保育園から自転車を飛ばして十五分ほど。駅前ロータリーに面したビルの、一階に小さな店舗と二階に事務所を構えた不動産会社。店の方はワンルームの賃貸が中心で、近くにある大学の学生が主な客層だ。
私はビル脇の階段で二階に上がると、トートバッグから取り出した鍵で事務所のドアを開ける。普段は一番乗りで出社する社長が今日は出張に出ているから、代わりに事務所を開けなければならなかったので急ぐ必要があったのだ。
広くはない空間には壁一面に棚が並び、沢山の分厚いファイルがぎちぎちに収納されている。一階とは違ってこちらは土地やマンションの売買契約が中心だから、とにかく関連する書類の量が比べ物にならない。
そんな雑多な事務所内にあるデスクの一つに荷物を置いてから、パソコンの電源を入れる。そして、メールを確認し夜の間に届いていた新着の物件情報をプリントアウトしてファイルへと綴じた。
「おはようございます」
ほどなくして事務所へと顔を出したのは、一階の店舗を店長として任されている小林さん。恰幅の良いダブルスーツを着て貫禄はあるけれど、まだ三十代後半だと聞いた時は正直驚いた。
彼は当たり前のように事務所の奥に入ってきて、壁掛けのキーボックスから店の鍵を取り出していく。店長なんだから合鍵くらい持っていて良さそうなんだけれど、店舗の鍵は事務所で管理している。というのは、どうやら彼の前任が何かしでかしたとかいう複雑な理由があるらしい。私が勤める以前のことだから詳しくは知らないけれど……
「あ、新着が入ってたのでファイル、ここに置いておきますね」
カウンターの上にさっき綴じたばかりのファイルを置いて声を掛けると、給湯室でコーヒーを淹れていた小林さんが「了解っす」と返事する。開店時間まではまだ余裕があるからと、彼はいつも事務所で一息ついてから下へ降りていく。
「社長は今日は土地の査定でしたっけ? 前泊とかって珍しいですね」
「そうです。お知り合いの方のご実家で山も所有されてるらしくて」
不動産鑑定士でもある社長は、依頼を請けた土地の現地確認へ出たりと年中忙しい。特に最近は遠方にある実家が保有するという山林の相談が増えているらしく、国内を飛び回っていることが多い。でも、田舎のそんな土地は買い手がほとんどないから商売としてはなかなか難しいみたいだ。それでもまあ、義理人情に厚い社長のことだから頼まれたら断れないのだろう。
「山かぁ、いいっすね。持ってたらキャンプし放題じゃないっすか」
「店長、キャンプとかされるんですか?」
「いや、全然」
アウトドア向きじゃないメタボ気味なお腹を擦りながら、小林さんは応接用のソファーに腰を下ろして無責任に笑ってみせる。淹れたてのコーヒーの香りにそそられて、私も給湯室へと入り自分専用のマグカップを食器棚から取り出した。
私、大槻小春は息子の登園作業のために園リュックを手に持ち、保育室内をウロウロと歩き回る。年少になったばかりの息子、綾斗はまだ一人では朝の準備なんてできない。低いテーブルの上に並べられている出席シールの中から自分の好きな物を選んで、それをゆっくりと帳面に貼り付けている。
「綾斗、今日はママ、少し急がないといけないから、これを片付けたら行くね」
ループ付きタオルを指定場所に引っ掛けて、コップとお箸をカゴに入れていく。着替え一式の入ったビニール袋と小さなリュックをロッカーへ突っ込んでから、息子がシールを貼り終わった帳面を覗き見ると、まだ一度もお休みしていないから今月のページはチューリップのシールで満開だ。
綾斗の頭を優しく撫でてから「今日も頑張ってね」と声を掛けて保育室を出る。部屋の前ではこの春に入園したばかりの女児がイヤイヤと首を横に振って泣きながら母親の太腿にしがみ付いていた。
「おはようございます……」
こういう時、周りが余計な声掛けをすると悪循環になることもある。私は保護者に向かって小声で挨拶と会釈だけをしてその横を通り過ぎた。他の親達もみんな心の中では「大変だ……」とか「うちの子もそうだったな」とか考えてても、見て見ぬふりをしてあげている。あれは大抵の親子が通る道なのだから仕方ない。
――綾斗なんて、私が黙って出てっても平然としてるけどね……
シールを貼り終えると一目散に玩具の入ったボックスへ向かった息子。生後六か月から通っている保育園は、息子の日常にすっかり馴染んでしまっている。それが良いのか悪いのかは分からないけれど、シングルマザーな私には保育園以外に頼れる場所なんてない。
駐輪場に停めていたママチャリを漕いで、私は勤務先へと向かう。途中、綾斗と同じ帽子とリュックで歩く親子にすれ違って挨拶を交わしたが、学年は違うから名前までは思い出せなかった。
保育園から自転車を飛ばして十五分ほど。駅前ロータリーに面したビルの、一階に小さな店舗と二階に事務所を構えた不動産会社。店の方はワンルームの賃貸が中心で、近くにある大学の学生が主な客層だ。
私はビル脇の階段で二階に上がると、トートバッグから取り出した鍵で事務所のドアを開ける。普段は一番乗りで出社する社長が今日は出張に出ているから、代わりに事務所を開けなければならなかったので急ぐ必要があったのだ。
広くはない空間には壁一面に棚が並び、沢山の分厚いファイルがぎちぎちに収納されている。一階とは違ってこちらは土地やマンションの売買契約が中心だから、とにかく関連する書類の量が比べ物にならない。
そんな雑多な事務所内にあるデスクの一つに荷物を置いてから、パソコンの電源を入れる。そして、メールを確認し夜の間に届いていた新着の物件情報をプリントアウトしてファイルへと綴じた。
「おはようございます」
ほどなくして事務所へと顔を出したのは、一階の店舗を店長として任されている小林さん。恰幅の良いダブルスーツを着て貫禄はあるけれど、まだ三十代後半だと聞いた時は正直驚いた。
彼は当たり前のように事務所の奥に入ってきて、壁掛けのキーボックスから店の鍵を取り出していく。店長なんだから合鍵くらい持っていて良さそうなんだけれど、店舗の鍵は事務所で管理している。というのは、どうやら彼の前任が何かしでかしたとかいう複雑な理由があるらしい。私が勤める以前のことだから詳しくは知らないけれど……
「あ、新着が入ってたのでファイル、ここに置いておきますね」
カウンターの上にさっき綴じたばかりのファイルを置いて声を掛けると、給湯室でコーヒーを淹れていた小林さんが「了解っす」と返事する。開店時間まではまだ余裕があるからと、彼はいつも事務所で一息ついてから下へ降りていく。
「社長は今日は土地の査定でしたっけ? 前泊とかって珍しいですね」
「そうです。お知り合いの方のご実家で山も所有されてるらしくて」
不動産鑑定士でもある社長は、依頼を請けた土地の現地確認へ出たりと年中忙しい。特に最近は遠方にある実家が保有するという山林の相談が増えているらしく、国内を飛び回っていることが多い。でも、田舎のそんな土地は買い手がほとんどないから商売としてはなかなか難しいみたいだ。それでもまあ、義理人情に厚い社長のことだから頼まれたら断れないのだろう。
「山かぁ、いいっすね。持ってたらキャンプし放題じゃないっすか」
「店長、キャンプとかされるんですか?」
「いや、全然」
アウトドア向きじゃないメタボ気味なお腹を擦りながら、小林さんは応接用のソファーに腰を下ろして無責任に笑ってみせる。淹れたてのコーヒーの香りにそそられて、私も給湯室へと入り自分専用のマグカップを食器棚から取り出した。
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