シンママの隣に越して来たエリート経営者は元カレです
第三話・再会
いつまでも止まらない綾斗のお喋りに相槌を打ちながら、手を繋いで傾斜の急な階段を上がり二階にある玄関へと向かう。
鍵を開けると油の切れた軋み音を立てる玄関ドアは、引っ越し後に大家に頼み込んで付けてもらった細いチェーンがあるだけで、お世辞にも防犯とは縁遠い代物だ。
引っ越しせざるを得なくなった時、職場の伝手で物件を探してもらったけれど、小さな子供がいるというと断られてばかりだった。かと言って広いファミリー向けの物件は家賃が高くて手が出せない。
唯一条件が合ったのがこのおんぼろアパートだけだ。
玄関を入れば狭くて小さなキッチンと畳敷きの八畳間。黄ばんだ壁紙に日焼けした柱の我が家だけれど、綾斗は帰ってくると嬉しそうにお気に入りの玩具を求めて部屋の中へ駆けていく。
「綾斗、まずはおてて洗いとガラガラをしようか」
「あ、そうだった……」
園でも手洗いとうがいは徹底されているようで、息子は思い出したと慌てて洗面所に移動する。後ろから付いていくと、綾斗は踏み台を使い蛇口に手を伸ばして水を流し始めた。
コップを使ってガラガラと上手にうがいしている姿に、息子の成長へ誇らしさを覚えつつ、一日の大半を離れているせいで本来は親である自分が教えてあげないといけないことなのにと焦り始める。
息子の濡れた手と口元をタオルで拭いてやった後、私も手洗いとうがいを済ませ、保育園から持って帰ってきたばかりの洗濯物を洗濯機へと放り込む。園では一日に何度も着替えさせてもらっているから毎日大量の洗い物が出る。年少になってから着替えの回数は減って少し楽にはなったけれど。
夕飯を作るために冷蔵庫の中を覗き込んでいると、玄関チャイムが鳴る。こんな時間に訪ねてくるような知り合いはいないし、何かを注文した覚えもない。
不審に感じながらも息子が奥の部屋で大人しく遊んでいるのを確かめてから、私はチェーンを掛けたままの玄関ドアを開いた。
そして、予想もしていなかった訪問者に、驚きと焦りで慌ててドアを締め直し、咄嗟に鍵をガチャリと閉めてしまった。
「……えっ、どうしてっ⁉」
心臓がバクバクとものすごい勢いで早打ちする。
たった二十センチほどのドアの隙間から見えた顔は、私が一生忘れることはない人のものだった。薄暗い廊下の向こう、見間違えたのかと思ったけれど、もう一度ドアを開ける勇気は出ない。
ドアに背を凭れさせ、息苦しくなるほど乱れた呼吸のまま、絞り出すようにもう一度呟く。
「どうして……?」
四年前、もう会わないと決めて姿を消したのは私の方だ。子供の頃に何度か遊びに行ったことがあるだけの祖母の家に身を隠すように逃げたのは私。さらにそこからも離れ、こんな見知らぬ土地で部屋を借りるようになったのに、なのにどうしてドアの向こうに彼がいるのだろうか?
いつまでも開かないドアの向こうから、困惑した声が聞こえてくる。
「……小春?」
あの時と少しも変わらない声に、私の目から涙が溢れ始める。酷いことをしたのは私の方なのに、名前を呼んでくれる声は以前と変わらずとても優しい。
かつての恋人でもある望月恭平が今、ドアの向こうでどんな表情をしているのかなんて、見えなくても十分に分かっている。眉を下げた弱り切った目で、私が反応を返すのを静かに待っていてくれているはずだ。
「開けて、もらえないかな……?」
ドアを叩いたりして急かしたりはせず、落ち着いた声で懇願してくるだけの元カレ。
黙って居なくなった私に対して怒鳴り散らすようなことをする人じゃないのは知っている。
「先月、久しぶりに日本へ帰ってきて、やっぱり小春ともう一度会いたくて。いろいろ探した」
ドア越しに聞こえてくる彼の声は微かに震えているようにも聞こえた。
「小春が急にいなくなったの、あの時は理由が全く分からなかったけど。帰国して調べてたら分かった。だから、お互いにちゃんと顔を見て話したいんだ」
「でも、私はもう……」
私が小さな声で呟くと、廊下側で恭平が「良かった、話しもしてもらえないのかと思った」と少しホッとしたように小さく笑うのが聞こえてくる。なぜ、そんな優しいことを彼はまだ言ってくれるんだろうか。
母親が泣き顔で玄関ドアを開こうともせずにいて、でもドアの向こうからは誰かが何か話している。そんなおかしな状況に、部屋で遊んでいたはずの綾斗が不思議そうな顔をしながら寄って来て聞いてくる。
「ママ、お客さんは入れてあげないの?」
部屋の中から聞こえてくる子供の声に、廊下で恭平がハッと息を呑んだのが分かった。壁の薄いボロアパートは部屋の中の声なんて筒抜けだ。
「今の声は、綾斗か?」
外から自分の名を呼んでくる男の声に聞き覚えがない息子は、キョトンと不思議そうな表情で確かめるように私の顔を見上げている。私は綾斗への説明の言葉が見つからず、閉じたままのドアをしばらく見つめていた。
でも、意を決してドアからチェーンを外し、鍵を開ける。相変わらず軋む音を立てて開いた玄関ドアの向こうには、黒色のスーツを着た元カレの姿があった。
元から落ち着いた雰囲気の人だったが四年の歳月を経てさらに増したように見えたが、あの頃の面影はほとんどそのままな恭平に対し、私は真っ直ぐに目を合わせることができなかった。
「……どうぞ」
綾斗を守るよう自分の方へと手で寄せながら、家の中へと恭平を促す。彼は「ありがとう」と短く礼を言ってから玄関を入ってきた。
鍵を開けると油の切れた軋み音を立てる玄関ドアは、引っ越し後に大家に頼み込んで付けてもらった細いチェーンがあるだけで、お世辞にも防犯とは縁遠い代物だ。
引っ越しせざるを得なくなった時、職場の伝手で物件を探してもらったけれど、小さな子供がいるというと断られてばかりだった。かと言って広いファミリー向けの物件は家賃が高くて手が出せない。
唯一条件が合ったのがこのおんぼろアパートだけだ。
玄関を入れば狭くて小さなキッチンと畳敷きの八畳間。黄ばんだ壁紙に日焼けした柱の我が家だけれど、綾斗は帰ってくると嬉しそうにお気に入りの玩具を求めて部屋の中へ駆けていく。
「綾斗、まずはおてて洗いとガラガラをしようか」
「あ、そうだった……」
園でも手洗いとうがいは徹底されているようで、息子は思い出したと慌てて洗面所に移動する。後ろから付いていくと、綾斗は踏み台を使い蛇口に手を伸ばして水を流し始めた。
コップを使ってガラガラと上手にうがいしている姿に、息子の成長へ誇らしさを覚えつつ、一日の大半を離れているせいで本来は親である自分が教えてあげないといけないことなのにと焦り始める。
息子の濡れた手と口元をタオルで拭いてやった後、私も手洗いとうがいを済ませ、保育園から持って帰ってきたばかりの洗濯物を洗濯機へと放り込む。園では一日に何度も着替えさせてもらっているから毎日大量の洗い物が出る。年少になってから着替えの回数は減って少し楽にはなったけれど。
夕飯を作るために冷蔵庫の中を覗き込んでいると、玄関チャイムが鳴る。こんな時間に訪ねてくるような知り合いはいないし、何かを注文した覚えもない。
不審に感じながらも息子が奥の部屋で大人しく遊んでいるのを確かめてから、私はチェーンを掛けたままの玄関ドアを開いた。
そして、予想もしていなかった訪問者に、驚きと焦りで慌ててドアを締め直し、咄嗟に鍵をガチャリと閉めてしまった。
「……えっ、どうしてっ⁉」
心臓がバクバクとものすごい勢いで早打ちする。
たった二十センチほどのドアの隙間から見えた顔は、私が一生忘れることはない人のものだった。薄暗い廊下の向こう、見間違えたのかと思ったけれど、もう一度ドアを開ける勇気は出ない。
ドアに背を凭れさせ、息苦しくなるほど乱れた呼吸のまま、絞り出すようにもう一度呟く。
「どうして……?」
四年前、もう会わないと決めて姿を消したのは私の方だ。子供の頃に何度か遊びに行ったことがあるだけの祖母の家に身を隠すように逃げたのは私。さらにそこからも離れ、こんな見知らぬ土地で部屋を借りるようになったのに、なのにどうしてドアの向こうに彼がいるのだろうか?
いつまでも開かないドアの向こうから、困惑した声が聞こえてくる。
「……小春?」
あの時と少しも変わらない声に、私の目から涙が溢れ始める。酷いことをしたのは私の方なのに、名前を呼んでくれる声は以前と変わらずとても優しい。
かつての恋人でもある望月恭平が今、ドアの向こうでどんな表情をしているのかなんて、見えなくても十分に分かっている。眉を下げた弱り切った目で、私が反応を返すのを静かに待っていてくれているはずだ。
「開けて、もらえないかな……?」
ドアを叩いたりして急かしたりはせず、落ち着いた声で懇願してくるだけの元カレ。
黙って居なくなった私に対して怒鳴り散らすようなことをする人じゃないのは知っている。
「先月、久しぶりに日本へ帰ってきて、やっぱり小春ともう一度会いたくて。いろいろ探した」
ドア越しに聞こえてくる彼の声は微かに震えているようにも聞こえた。
「小春が急にいなくなったの、あの時は理由が全く分からなかったけど。帰国して調べてたら分かった。だから、お互いにちゃんと顔を見て話したいんだ」
「でも、私はもう……」
私が小さな声で呟くと、廊下側で恭平が「良かった、話しもしてもらえないのかと思った」と少しホッとしたように小さく笑うのが聞こえてくる。なぜ、そんな優しいことを彼はまだ言ってくれるんだろうか。
母親が泣き顔で玄関ドアを開こうともせずにいて、でもドアの向こうからは誰かが何か話している。そんなおかしな状況に、部屋で遊んでいたはずの綾斗が不思議そうな顔をしながら寄って来て聞いてくる。
「ママ、お客さんは入れてあげないの?」
部屋の中から聞こえてくる子供の声に、廊下で恭平がハッと息を呑んだのが分かった。壁の薄いボロアパートは部屋の中の声なんて筒抜けだ。
「今の声は、綾斗か?」
外から自分の名を呼んでくる男の声に聞き覚えがない息子は、キョトンと不思議そうな表情で確かめるように私の顔を見上げている。私は綾斗への説明の言葉が見つからず、閉じたままのドアをしばらく見つめていた。
でも、意を決してドアからチェーンを外し、鍵を開ける。相変わらず軋む音を立てて開いた玄関ドアの向こうには、黒色のスーツを着た元カレの姿があった。
元から落ち着いた雰囲気の人だったが四年の歳月を経てさらに増したように見えたが、あの頃の面影はほとんどそのままな恭平に対し、私は真っ直ぐに目を合わせることができなかった。
「……どうぞ」
綾斗を守るよう自分の方へと手で寄せながら、家の中へと恭平を促す。彼は「ありがとう」と短く礼を言ってから玄関を入ってきた。