シンママの隣に越して来たエリート経営者は元カレです
第三十二話
物音一つしない隣の部屋の様子に耳を澄ませ、私は隣で眠る息子の布団を掛け直した。どんなに息を殺してみても、聞こえてくるのは綾斗の寝息と斜め下の階の住民が観ている最中らしいテレビの音だけ。ただ時折、駐輪場の剝がれかけたトタン屋根が強風に煽られて騒々しい音を立てることはあったが。
静か過ぎる夜がこんなに心細く感じるのはなぜだろうか。
これまでだって出張だと言って恭平が帰って来ない日はあった。沢山の地方土産に綾斗が興奮し、貰ったご当地キャラのキーフォルダーは早速園リュックに付けたりととても嬉しそうだった。
全国に支社を構える望月コーポレーションの代表なのだから、仕事が忙しいからと二、三日部屋を空けることなんて珍しいことじゃなかったし、あの時は今ほど不安になったりはしなかった。
でも、何の連絡もないまま十日を過ぎても人の気配のない隣の部屋に、さすがの綾斗も違和感を感じたのだろうか、お風呂上りに髪をドライヤーで乾かしてあげている時に聞いてきた。
「パパ、今日は帰ってきた?」
私はその言葉にドキリとする。幼い頃、私が母親へ幾度となく問いかけたことを思い出す。
「お父さん、今日は帰ってきた?」朝起きてすぐ、何度となく口にした言葉を同じように息子が発したのだ。まともに帰宅しないことが多い父親を、母と二人で待ち続けた。結局、父は私達のいる家から去っていったのだけれど……
あの時の不安で寂しい思いを息子が抱いているのかと思うと、切なくて苦しくなる。
私はパジャマ姿の綾斗を抱き締めながら、息子へと教え込む。恭平が傍にいるのが当たり前になる前に、もっと前にちゃんと伝えてあげていれば良かったと悔やみながら。
「パパの本当のお家は、ここじゃないの。だから、今日も別のお家の方へ帰っているだけよ」
改めて言葉として口にした途端、急に気持ちが落ち込んで、まるで心におもりがぶら下がってしまったようだった。腕の中の息子が湯上りの血色の良い顔で不思議そうに見上げている。
――大丈夫、ただ以前の状況に戻っただけ。それに、私には綾斗がいるんだから……
そう心を奮い立たせながらも、自然と耳は隣の部屋の音を拾おうと必死になっていた。自分達が少しずつ築き始めたと思っていたものが、ただの一時的なものだったとは思いたくなくて。
だからと言って、私の方から彼の元を訪ねるという勇気もなかった。恭平が今も四年前と同じ会社近くのマンションを保有しているのは聞いていたにも関わらず。
「でも、パパの荷物はそのままだから、そのうちに帰ってくるよ」
「そっかぁ、早く帰ってきたらいいのにね」
私の口先だけの慰めを信じ切った息子が嬉しそうな笑顔を見せる。明日の朝には帰っているかもしれない、そう疑わずに素直に布団へ潜り込む。きっと早く寝たら早く会えるとでも考えたのだろうか。
けれどやっぱり翌朝も人の気配のないお隣はとても静かで、集合ポストには無断投函されたチラシが入り切れずにはみ出していた。
それでも私は寂しがる息子へ向かって、「お仕事が忙しくなくなったら帰って来るはずよ」と上辺だけの言葉を掛け続ける。
自分から連絡することだってできるのに、それはしてはいけない気がしてなぜか躊躇ってしまう。
でも、さらに一週間ほどが経った日の夕方。保育園の帰りに寄ったスーパーで買ったばかりの食材を詰め込んだエコバッグを肩に、私は綾斗と手を繋いでアパートの階段を上がっていく。
自宅の玄関の鍵をバッグの内ポケットから引っ張り出して開けていると、奥隣の玄関ドアがガチャリと開いた。
「パパ⁉」
繋いでいた手を離し、喜んで駆け寄っていく綾斗。私も恭平が出てくるのだと思って振り返ったドアの向こうには、いきなり幼児に走り寄られて驚いている管理会社の社員らしき男性の姿があった。
「え、何っ? ボク、どうしたんだい?」
胸ポケットに社名が印字されたライトグレーの作業服を着た男性が、腰を屈めながら綾斗に向かって訊ねてくる。子供好きな人なのか優しい口調で話し掛けてくれていたのに、綾斗は戸惑いながらも急いで私の方へと戻ってきた。
「あ、すみません。お隣にお住まいの方と間違えちゃったみたいで……」
「ああ、ここを借りてた人は今日の昼過ぎに引っ越しされましたよ。って言っても、手続きの来られたのは代理の方でしたけどね」
さらりと入居者に関する情報を口にした管理会社の人は、ポケットから沢山の鍵の束を取り出して、その中の一つを使って隣の部屋の玄関を施錠していった。彼の話によれば恭平の荷物は本人不在のまま業者が全て運び出した後のようで、今は退去後の最終確認に訪ねてきただけのようだった。
廊下から見えることができる台所のすりガラスの向こうには、今朝までは彼がコーヒーを飲む際に愛用していたマグカップの影があったのに、今は何も見えない。
翌朝、出掛ける前に確認した集合ポストも、彼の部屋の番号のところには無断チラシ防止のために投函口がビニールテープで塞がれてしまっていた。
ある日突然に隣の部屋に押しかけてきた恭平は、ある日突然に私達の隣人ではなくなった。再び空き家になった壁の向こうからはもう、何の物音もしなくなった。
静か過ぎる夜がこんなに心細く感じるのはなぜだろうか。
これまでだって出張だと言って恭平が帰って来ない日はあった。沢山の地方土産に綾斗が興奮し、貰ったご当地キャラのキーフォルダーは早速園リュックに付けたりととても嬉しそうだった。
全国に支社を構える望月コーポレーションの代表なのだから、仕事が忙しいからと二、三日部屋を空けることなんて珍しいことじゃなかったし、あの時は今ほど不安になったりはしなかった。
でも、何の連絡もないまま十日を過ぎても人の気配のない隣の部屋に、さすがの綾斗も違和感を感じたのだろうか、お風呂上りに髪をドライヤーで乾かしてあげている時に聞いてきた。
「パパ、今日は帰ってきた?」
私はその言葉にドキリとする。幼い頃、私が母親へ幾度となく問いかけたことを思い出す。
「お父さん、今日は帰ってきた?」朝起きてすぐ、何度となく口にした言葉を同じように息子が発したのだ。まともに帰宅しないことが多い父親を、母と二人で待ち続けた。結局、父は私達のいる家から去っていったのだけれど……
あの時の不安で寂しい思いを息子が抱いているのかと思うと、切なくて苦しくなる。
私はパジャマ姿の綾斗を抱き締めながら、息子へと教え込む。恭平が傍にいるのが当たり前になる前に、もっと前にちゃんと伝えてあげていれば良かったと悔やみながら。
「パパの本当のお家は、ここじゃないの。だから、今日も別のお家の方へ帰っているだけよ」
改めて言葉として口にした途端、急に気持ちが落ち込んで、まるで心におもりがぶら下がってしまったようだった。腕の中の息子が湯上りの血色の良い顔で不思議そうに見上げている。
――大丈夫、ただ以前の状況に戻っただけ。それに、私には綾斗がいるんだから……
そう心を奮い立たせながらも、自然と耳は隣の部屋の音を拾おうと必死になっていた。自分達が少しずつ築き始めたと思っていたものが、ただの一時的なものだったとは思いたくなくて。
だからと言って、私の方から彼の元を訪ねるという勇気もなかった。恭平が今も四年前と同じ会社近くのマンションを保有しているのは聞いていたにも関わらず。
「でも、パパの荷物はそのままだから、そのうちに帰ってくるよ」
「そっかぁ、早く帰ってきたらいいのにね」
私の口先だけの慰めを信じ切った息子が嬉しそうな笑顔を見せる。明日の朝には帰っているかもしれない、そう疑わずに素直に布団へ潜り込む。きっと早く寝たら早く会えるとでも考えたのだろうか。
けれどやっぱり翌朝も人の気配のないお隣はとても静かで、集合ポストには無断投函されたチラシが入り切れずにはみ出していた。
それでも私は寂しがる息子へ向かって、「お仕事が忙しくなくなったら帰って来るはずよ」と上辺だけの言葉を掛け続ける。
自分から連絡することだってできるのに、それはしてはいけない気がしてなぜか躊躇ってしまう。
でも、さらに一週間ほどが経った日の夕方。保育園の帰りに寄ったスーパーで買ったばかりの食材を詰め込んだエコバッグを肩に、私は綾斗と手を繋いでアパートの階段を上がっていく。
自宅の玄関の鍵をバッグの内ポケットから引っ張り出して開けていると、奥隣の玄関ドアがガチャリと開いた。
「パパ⁉」
繋いでいた手を離し、喜んで駆け寄っていく綾斗。私も恭平が出てくるのだと思って振り返ったドアの向こうには、いきなり幼児に走り寄られて驚いている管理会社の社員らしき男性の姿があった。
「え、何っ? ボク、どうしたんだい?」
胸ポケットに社名が印字されたライトグレーの作業服を着た男性が、腰を屈めながら綾斗に向かって訊ねてくる。子供好きな人なのか優しい口調で話し掛けてくれていたのに、綾斗は戸惑いながらも急いで私の方へと戻ってきた。
「あ、すみません。お隣にお住まいの方と間違えちゃったみたいで……」
「ああ、ここを借りてた人は今日の昼過ぎに引っ越しされましたよ。って言っても、手続きの来られたのは代理の方でしたけどね」
さらりと入居者に関する情報を口にした管理会社の人は、ポケットから沢山の鍵の束を取り出して、その中の一つを使って隣の部屋の玄関を施錠していった。彼の話によれば恭平の荷物は本人不在のまま業者が全て運び出した後のようで、今は退去後の最終確認に訪ねてきただけのようだった。
廊下から見えることができる台所のすりガラスの向こうには、今朝までは彼がコーヒーを飲む際に愛用していたマグカップの影があったのに、今は何も見えない。
翌朝、出掛ける前に確認した集合ポストも、彼の部屋の番号のところには無断チラシ防止のために投函口がビニールテープで塞がれてしまっていた。
ある日突然に隣の部屋に押しかけてきた恭平は、ある日突然に私達の隣人ではなくなった。再び空き家になった壁の向こうからはもう、何の物音もしなくなった。