ガロウ
第三章
翌朝、画廊の応接室は不自然なほど明るかった。
南向きの窓から光が入り、磨かれたテーブルに反射している。
夜の静けさを意図的に消し去るような明るさだった。
影ができる前に、すべてを見せ切る光。
副代表は戻っていた。
五十代半ば。
背広は体に吸い付くように仕立てられている。
無駄のない姿勢。声は低く、柔らかい。
「昨夜、確認をされたと聞きました」
報告ではない。確認。
村木はその言い回しを、胸の内で反芻する。
机上には書類が整然と並ぶ。
輸送契約書。
インボイス。
パッキングリスト。
開梱時写真。
コンディションレポート。
動産総合保険証券。
重なりも、角のずれもない。
準備された卓上だった。
「問題は確認されませんでした」
村木が言うと、副代表は微笑む。
「でしたら、それでよろしいのでは」
終わりを示す微笑。
「念のため、工程の再確認を希望しております」
副代表の眉が、わずかに動く。
「工程?」
「再梱包、もしくは一時保管の有無です」
ペンを持つ指が止まる。
一拍。
椅子に深く座り直す。
「契約上は直送扱いです」
「承知しております。ですが、物理的移動経路のログを拝見したく」
沈黙。
明るい部屋に、影だけが落ちる。
「村木さん」
副代表は穏やかに言う。
「あなたは保険調査員です。美術物流の専門家ではない」
「その通りです」
「専門業者が温湿度管理を行い、受入時検品も完了している」
「温湿度ログの保存期間は」
「五年です」
「当該期間分を拝見できますか」
一瞬、視線が外れる。
「委託元の同意が必要です」
断定ではない。手続きの壁。
「本件は保険契約に基づく価値査定対象です。
調査条項第二十二条に基づき、事故原因調査の範囲に含まれると考えます」
副代表の指先が、机を軽く叩く。一定のリズム。
感情ではない。測定だ。
「事故は発生していません」
「その可能性を排除するための確認です」
笑みが、薄くなる。
「整っていること自体が疑わしい、と?」
「工程が見えません」
「省略ではありません。効率化です。
国際取引では一般的です」
「保税倉庫からの搬出後、直送であれば、GPS搬送ログが残るはずです」
「残っています」
「提示いただけますか」
「委託元の承諾が必要です」
同じ壁。
菜々緒がソファで脚を組み直す。
「便利だね、承諾」
副代表が視線を向ける。
「あなたは」
「部外者」
「その通りです」
冷静な確認。
「本件は内部監査で十分です」
「社内監査の責任者は」
「私です」
短い。
判断も、責任も、ここで閉じる構造。
村木の胸が、わずかに締まる。
「再確認を継続いたします」
「継続?」
「契約期間内です。評価確定前です」
「画廊に協力義務はありません」
「拒否の事実も、記録いたします」
副代表の視線が、わずかに鋭くなる。
「若いですね、村木さん」
「はい」
「若さは、正義ではない」
「承知しております」
一歩、距離が詰まる。
「疑念は、信用を損ないます」
「信用は、工程の透明性で担保されます」
「理想論だ」
「保険は理想で動きません。記録で動きます」
沈黙。
「どこまで掘るつもりですか」
「物理移動の事実が確認できるまで」
「その先は」
「事実次第です」
副代表はしばらく村木を見つめ、微笑んだ。
「好きにしなさい。ただし」
「はい」
「責任は、あなた個人に帰属します」
「承知しております」
法的脅しではない。
社会的孤立の宣告。
応接室を出る。
廊下の空気は軽い。
だが背中に視線が残る。
外に出ると、菜々緒が小さく息を吐いた。
「きれいに閉じてる」
「はい」
「正しい書類は、厄介だ」
マイクが言った。
「どこから行く」
「搬送ログです」
「直送なら、時間がある」
菜々緒が笑う。
「やっと走れる」
契約と責任の線を越えた。
引き返せる位置では、もうなかった。
南向きの窓から光が入り、磨かれたテーブルに反射している。
夜の静けさを意図的に消し去るような明るさだった。
影ができる前に、すべてを見せ切る光。
副代表は戻っていた。
五十代半ば。
背広は体に吸い付くように仕立てられている。
無駄のない姿勢。声は低く、柔らかい。
「昨夜、確認をされたと聞きました」
報告ではない。確認。
村木はその言い回しを、胸の内で反芻する。
机上には書類が整然と並ぶ。
輸送契約書。
インボイス。
パッキングリスト。
開梱時写真。
コンディションレポート。
動産総合保険証券。
重なりも、角のずれもない。
準備された卓上だった。
「問題は確認されませんでした」
村木が言うと、副代表は微笑む。
「でしたら、それでよろしいのでは」
終わりを示す微笑。
「念のため、工程の再確認を希望しております」
副代表の眉が、わずかに動く。
「工程?」
「再梱包、もしくは一時保管の有無です」
ペンを持つ指が止まる。
一拍。
椅子に深く座り直す。
「契約上は直送扱いです」
「承知しております。ですが、物理的移動経路のログを拝見したく」
沈黙。
明るい部屋に、影だけが落ちる。
「村木さん」
副代表は穏やかに言う。
「あなたは保険調査員です。美術物流の専門家ではない」
「その通りです」
「専門業者が温湿度管理を行い、受入時検品も完了している」
「温湿度ログの保存期間は」
「五年です」
「当該期間分を拝見できますか」
一瞬、視線が外れる。
「委託元の同意が必要です」
断定ではない。手続きの壁。
「本件は保険契約に基づく価値査定対象です。
調査条項第二十二条に基づき、事故原因調査の範囲に含まれると考えます」
副代表の指先が、机を軽く叩く。一定のリズム。
感情ではない。測定だ。
「事故は発生していません」
「その可能性を排除するための確認です」
笑みが、薄くなる。
「整っていること自体が疑わしい、と?」
「工程が見えません」
「省略ではありません。効率化です。
国際取引では一般的です」
「保税倉庫からの搬出後、直送であれば、GPS搬送ログが残るはずです」
「残っています」
「提示いただけますか」
「委託元の承諾が必要です」
同じ壁。
菜々緒がソファで脚を組み直す。
「便利だね、承諾」
副代表が視線を向ける。
「あなたは」
「部外者」
「その通りです」
冷静な確認。
「本件は内部監査で十分です」
「社内監査の責任者は」
「私です」
短い。
判断も、責任も、ここで閉じる構造。
村木の胸が、わずかに締まる。
「再確認を継続いたします」
「継続?」
「契約期間内です。評価確定前です」
「画廊に協力義務はありません」
「拒否の事実も、記録いたします」
副代表の視線が、わずかに鋭くなる。
「若いですね、村木さん」
「はい」
「若さは、正義ではない」
「承知しております」
一歩、距離が詰まる。
「疑念は、信用を損ないます」
「信用は、工程の透明性で担保されます」
「理想論だ」
「保険は理想で動きません。記録で動きます」
沈黙。
「どこまで掘るつもりですか」
「物理移動の事実が確認できるまで」
「その先は」
「事実次第です」
副代表はしばらく村木を見つめ、微笑んだ。
「好きにしなさい。ただし」
「はい」
「責任は、あなた個人に帰属します」
「承知しております」
法的脅しではない。
社会的孤立の宣告。
応接室を出る。
廊下の空気は軽い。
だが背中に視線が残る。
外に出ると、菜々緒が小さく息を吐いた。
「きれいに閉じてる」
「はい」
「正しい書類は、厄介だ」
マイクが言った。
「どこから行く」
「搬送ログです」
「直送なら、時間がある」
菜々緒が笑う。
「やっと走れる」
契約と責任の線を越えた。
引き返せる位置では、もうなかった。