盤上の春風~加古川、四人の歩み~

第八章 冬、そして春へ

 冬が来て、部室の隅に小さなストーブが置かれた。
 赤く光る上で、やかんが小さく鳴っている。

 湯気の立つ湯のみを手に、私たちは将棋盤を囲んだ。
「……あ」
 さくらが、指しかけた手を止める。
「その手、さっきもやったやつや」
 陽菜が笑う。
「うそ。じゃあ、こっち?」
 盤面を見つめ直すさくらの表情は、前よりずっと真剣だ。
「形、崩れてませんわよ」
 理沙が静かに言う。
 駒の配置を一つひとつ確かめるような視線だった。
「最初の頃やったら、もうぐちゃぐちゃになってたやろな」
 陽菜が湯のみを持ち替えながら言う。
「確かに」
 私は盤を眺める。
 飛車も角も、むやみに前に出ていない。
 歩も、ちゃんと役目を持って並んでいる。
「でも、勝てへんで?」
 陽菜が笑う。
「いいんですのよ」
 理沙は湯のみを口に運んでから、続けた。
「今は、このくらいがちょうどいいですわ」
 ストーブが、ぱち、と音を立てる。
 私は湯気の向こうに盤を見ながら思った。
 勝ったとか、負けたとか。
 強くなったかどうかよりも――

 こうして同じ場所に集まって、
 同じ盤を挟んで、
 同じ時間を過ごしていること。

 それが、前より少しだけ自然になっている。

「……次、私の番だね」
 そう言って、私は駒に手を伸ばした。

             ※

ある日曜日、私たちは四人で、加古川の街を歩いていた。
商店が並ぶ通りを抜けた先、
少し奥まった場所に、控えめな看板が出ているのに気づく。
──将棋道場。
「……ここ、将棋の道場やんな?」
陽菜が足を止める。
「入ってみようよ」
扉を開けると、空気が変わった。

畳の匂い。
駒が盤に置かれる、乾いた音。
時計の秒針だけが、やけに大きく聞こえる。

中では、小学生くらいの子から年配の人まで、
それぞれ盤を挟んで向かい合い、黙々と駒を動かしていた。

壁に目を向けると、額に入った写真や切り抜きがずらりと並んでいる。
加古川出身のプロ棋士の名前。
大会の記事。
少し色あせた新聞の紙面。
「すごい……」
思わず、声が漏れる。
「加古川から、こんなにたくさんのプロ棋士が出てるんだ」
そのとき、盤の奥から、ゆっくりと近づいてくる足音がした。
「見学ですか?」
声をかけてきたのは、白髪混じりの道場の先生だった。
にこりと笑って、私たちの手元をちらりと見る。
「よかったら、少し指していきませんか?」
そう言われて、私たちは顔を見合わせる。
「いえ、私たち……まだ全然で」
「初心者なんです」
 遠慮がちにそう言うと、先生は首を横に振った。
「大丈夫、大丈夫」
 盤の横に座りながら、やわらかく続ける。
「将棋はね、強い弱いよりも、まず楽しむもんですから」
 その言葉に、肩の力が少し抜けた。
 静かな道場の中で、駒の音だけが、変わらず刻まれている。

「……一局だけ、指してみようかな」
 私がそう言うと、三人も小さく頷いた。
道場の先生は、奥から空いている盤を一つ持ってきてくれる。
畳に置かれた盤は、学校のものより少し色が濃く、角が丸くなっていた。
「好きな席にどうぞ」
私は正座をして、向かいに座ったのは年配の男性だった。
白いシャツの袖をまくり、穏やかな目でこちらを見ている。
「よろしくお願いします」
声が、少しだけ上ずる。
「こちらこそ」
駒を並べる音が、静かな道場に響く。
学校の部室よりも、その一音一音がはっきり聞こえた。

最初の数手は、覚えた通りに。
飛車、角、歩。
途中で、手が止まる。
(ここ……どうするんだっけ)
盤の外から、陽菜たちの気配を感じる。
声は出さないけれど、ちゃんと見てくれている。
私は、深呼吸してから、歩を一つ進めた。
相手の男性は、少しだけ驚いたように眉を上げ、
それから、にこりと笑って駒を動かす。

終局は、思ったよりも早かった。

「ありがとうございました」
頭を下げると、相手はうなずいた。
「ええ手もありましたよ」
その一言に、胸の奥がじんわり温かくなる。

私だけでなく、陽菜も理沙も、さくらも――
結局、四人とも一局ずつ指すことになった。
「ほな、うちもお願いします!」
陽菜は少し緊張しながらも、いつもの調子で席に着く。
向かいに座ったのは、落ち着いた雰囲気の中年の男性だった。

駒が進むにつれて、陽菜の表情が少しずつ変わっていく。
「……え、そこ来るん?」
思わず声が漏れたあと、陽菜は苦笑した。
「さっきまで有利や思ってたのに」

終局は早かった。
「ありがとうございました!」
立ち上がると、相手の人が笑って言った。
「ええ踏み込みでしたよ。最後、惜しかった」
「ほんまですか? ……でも、負けちゃいました!」
そう言いながらも、陽菜はどこか満足そうだった。

理沙は、年配の女性と向かい合った。

一手一手、慎重に指していく。
けれど相手は、盤面を読む速さが違った。
「そこまで見てはったんですの……」
静かに感心するような声。
「長いこと指してますから」
そう返されて、理沙は素直に頷いた。
「勉強になりますわ」

さくらの相手は、高校生くらいの男の子だった。
けれど、指し手は迷いがなく、鋭い。
「……あ、詰みです」
さくらは一瞬きょとんとしてから、はっと気づく。
「本当だ……」

「ありがとうございました」

少し悔しそうにしながらも、笑顔で頭を下げた。

四人とも、結果は同じだった。
全敗。
でも、公民館の初心者向けの大会とは、空気が違う。

あのときの相手は、やさしく、教えるように指してくれた。
ここでは、誰も手加減しない。
それでも、冷たさはなかった。
「強い人って、盤の見え方が全然違うんやな」
陽菜が言う。
「でも、怖くはなかったですね」
さくらが続ける。
「むしろ、もっと知りたくなりましたわ」
理沙が、静かにそう言った。

私は、四人分の盤を思い返す。

負けた。
けれど、心は沈んでいない。


「今日も、楽しかったよね」
 私は言うと、
「そうですね」
「負けたけどな」
「負けたけど」
 三人は笑い合う。

勝てなくても、
強くなくても、
将棋は、ちゃんと楽しい。

それが分かっただけで、
今日、ここに来た意味は十分だった。

 帰り際、道場の先生が声をかけてくれた。
「向こうに、ちょっとした売り場がありますよ」

 案内された先には、小さな棚があった。
 将棋盤や駒だけでなく、扇子、ストラップ、メモ帳などなど。
 一つひとつは控えめだけれど、どれも大切に並べられている。

 「わ、かわいい」
 陽菜が真っ先に覗き込む。
「歩のストラップやん。桂馬もある」

「字、ちゃんと彫ってありますね」
 さくらは駒の消しゴムを手に取って、裏側まで確かめている。

 理沙は、少し離れたところで扇子を眺めていた。
「こういうの……」
 ぽつりと、思い出したように言う。
「夏に、高槻で関西将棋会館に寄りましたでしょう」
「あぁ、USJの帰りの。うちが行こう言うて行った」
「そうそう。着いたのが遅うて、売店はもう閉まってて」
「せやったなあ。見るだけでも、楽しみやったのに」
 陽菜はにっこりと笑う。
「だから、余計に嬉しいですわ」
 理沙はそう言って、メモ帳を一冊手に取った。
表紙には、将棋盤のマス目と、小さな文字。

 一手一手を、大切に。

「今日の記念に、ちょうどいいですわね」
「そうだね」
 私は頷いた。

 陽菜は結局、歩のストラップを選んだ。
「うち、あのとき見られへんかった分も含めて、これにする」
「なんで歩なん?」
「地味やけど、大事やから」

 私たちのそんなやり取りを眺めていた道場の先生が、穏やかに
笑いながら会計をしてくれる。
「将棋は楽しむ心が一番大切。加古川は将棋のまちと言われているけど、それは強い人が多いからじゃない。将棋を愛する人が多いからなんです。君たちみたいに、友達と楽しそうに将棋を語る若い子を見ると、嬉しくなる」
 その言葉が、私たち四人の心に深く響いた。

外に出ると、冬の空気が頬に冷たい。
袋の中で、買ったばかりのグッズが小さく触れ合う音がした。
夏には、扉の外から眺めるだけだった世界。
今は、その中に一歩、足を踏み入れている。

「……あのとき、閉まっててよかったかもな」
 陽菜が微笑みながら言う。
「え?」
 私は反応した。
「楽しみ、あとに取っとけたやん」

 誰も否定しなかった。

 あの夏の夕方と、今日のこの冬の日が、
 盤の上みたいに、静かにつながっている気がした。
 
         ※

 三学期のある日、学校帰りの駅前で、私たちは見知らぬ先輩に声をかけられた。
「香陵の将棋同好会の子たちやろ?」
 振り向くと、制服の胸元に見覚えのない校章。
 宝成の三年生だという。
「記事、見たよ。楽しそうやったな」
 そう言って、先輩は少しうれしそうに笑う。
 文化祭での私たちの活動が、その翌月発売の地元情報誌『はりま風だより』に写真付きで特集された。
 といっても、表紙ではない。百ページを超える誌面の中の、ほんの一ページ。
 地域の話題を紹介するコーナーの一角に、四人で盤を囲む小さな写真と、短い記事が載っただけだ。
 読んだ人の中にも、きっと気づかずにページをめくった人はいるだろう。
 それくらいの扱い。
 でも、だからこそちょうどよかった。
 駅前の本屋で「これ、あんたらやろ」と指さされて赤くなったり、
商店街のおばちゃんに「将棋の子ら、載ってたね」と言われたり。
 大事件ではない。
 けれど、この街のどこかで、そっと覚えていてくれる人がいる。

 それ以来、私たちはこの街で“ちょっとだけ”顔を知られた存在になった。

「神吉先生、元気にしてはる?」
 先輩のその一言に、私たちは思わず顔を見合わせた。
「宝成で顧問してた頃、お世話になってん。うちらの代、よう怒られもせず、よう笑われもせず……静かに見守ってくれる先生やった」
 懐かしそうな目だった。
「今も変わらんよ。将棋部の日は肩の力が抜けるって言うてはった」
 陽菜がそう伝えると、先輩はほっとしたように頷いた。
「先生らしいな」
 少し沈黙が落ちる。
 駅前の人通りが、ざわざわと行き交う。
「先生、変わってなくてよかった。うちは、もうすぐ卒業やけどな。続けとってな。あの先生のとこで」
 その一言が、どこか静かに背中を押すようだった。
「はい」
 四人の声が揃う。
「ほな、頑張ってな」
 そう言って、先輩は笑顔で軽く手を振った。
 私たちも笑顔で手を振り返す。
 人混みの向こう、駅の構内へ消えていく背中は、もう振り返らなかった。

 ほんの数分の立ち話。
 たぶん、もう会うことはない。

 でも――

 同じ盤を挟み、同じ先生を知っている。
 それだけで、どこか遠くの対局とつながったような気がした。

 駅前の風が、少しだけ春の匂いを含んでいた。
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