扉の向こうの王子様~終電帰りの限界社畜OL、玄関のドアを開けたら異世界と繋がっていました
シェイルは凛子が纏めた資料を手に取ると、ゆっくりと目を通し始める。その青灰色の瞳が、淡々と文字を追っていく。凛子は息を詰めて、その様子を見守った。
「――短時間でよく纏めてある」
予想外の言葉に、凛子は目を見開く。
「え……?」
シェイルは資料から目を離すと、凛子を見据えた。そこには先程までの冷たさとは違う、わずかな評価の色が見えた。
「お前の指摘は正しい。今年に入ってから魔物の活性化は異常だ。学術庁でも調査を進めさせているが、未だ原因は不明。だが、傾向としては三月以降、確かに変化が見られる」
シェイルは立ち上がると、資料室の方へと歩を進めた。凛子も慌ててそれに続く。
「今月末から、サルスェ地方とゼリアス山岳要塞への大規模討伐が予定されている。期間は最低でも二週間。場合によっては一月に及ぶ」
資料室の壁に掛けられた大きな地図の前で、シェイルは立ち止まった。
「お前が気づいた通り、魔物の出現様態は変化している。だがそれ以上に問題なのは――」
シェイルの指が、地図上のある一点を示す。
「これらの地点を線で結ぶと、ある場所を中心とした同心円状になる」
凛子は目を凝らす。確かに、シェイルの言う通りだった。そして、その中心に位置するのは――
「大聖堂……ですか?」
「正確には、大聖堂の更に奥。祈りの道の最深部だ」
シェイルの声は低く、どこか遠くを見ているようだった。
「何が……」
「それを確かめるのが、今度の討伐の真の目的だ」
凛子は息を呑む。
薬缶の湯が、沸騰の音を立てていた。
「煮え立っているぞ」
シェイルの言葉に我に返り、凛子は慌てて資料室を飛び出した。
薬缶を火から下ろし、茶葉を折り淹れる。手が僅かに震えていることに気づき、凛子は深く息を吐いた。
自分が纏めた資料が、ただの数字の羅列ではなく、何か大きな事態の予兆だったのだと、遅れて理解する。そして、これから向かおうとしている場所が、どれほど危険なのかも。
シェイルは既に地図から離れ、机に戻って別の書類に目を通していた。
「あの……」
凛子は言葉を探す。
「もしかして、討伐に、私も随行するのでしょうか」
凛子の言葉に手が止まり、一瞬だけ伏せられた瞳がこちらを射抜く。
「当然だ。お前は俺の秘書官だろう」
「承知、しました」
窓の外では、既に夜の帳が降り始めている。
冷たい風が室内を抜けていく中で、凛子は改めて、自分がこの世界で生きていくということの意味を噛み締めていた。それは、ただ日々を過ごすということではなく、この国の、そして彼の戦いに、自分も関わっていくということなのだと。
◇◇◇
軍官舎に戻った凛子を、カトレアが仁王立ちで待ち構えていた。
「遅かったな。歓迎会は明日に延期だ」
「わーそうだった! すみません」
「いや、構わない。ただ、顔色が悪いぞ」
凛子は首を横に振る。
「少し、色々、考え事をしていただけで」
カトレアは曖昧な言葉に少しだけ考える様なそぶりを見せ、やがて小さく頷き「そうか。ならいい。だが無理はするな。倒れられると、こちらも困る」そう言って、自室へと戻っていった。
軍服を脱ぎ、だらしなくも足だけで靴を脱ぎ、敷物の上に腰を下ろす。石造りの壁が、今夜はいつも以上に冷たく感じられる。窓の外に目をやると、遠くに王宮の灯りが見えた。あの中で、シェイルは今も仕事を続けているのだろうか。昨日までのどこか、ぬくぬくとした安寧が、足元から音を立てて崩れていくような錯覚を覚える。答えの出ない問いを胸に、凛子は長い夜を迎えた。