扉の向こうの王子様~終電帰りの限界社畜OL、玄関のドアを開けたら異世界と繋がっていました
◇◇◇

 蒼月亭の最上階にある賓客向けの部屋は他の階とは一線を画す空間だった。
 天井は高く、梁には精緻な彫刻が施されている。壁は深い茜色の壁紙で覆われ、金糸で刺繍された布が所々に垂れ下がっていた。

 続き間の中央には、象牙色の絹が張られた豪奢な寝台が鎮座している。
 その四隅には細工の施された柱が立ち、薄い天蓋が優雅に垂れていた。  

 窓際には黒檀の机と、深紅のビロードを張った椅子が二脚。そこにシェイルは腰を下ろし、机の上に地図を広げている。机の端には銀の燭台が置かれ、その炎が地図の上で揺らめいていた。 ただの娼館の一室ではなく、まるで貴族の私室のような佇まいだった。  

 天井には天窓が設けられており、夜空が見える。
 今は月光が斜めに差し込み、室内をぼんやりと照らしていた。

「それで、早速報告があると聞いたのだが?」

「そうねえ……」

 リゼットはぴたりとシェイルの肩に頬を当てながら、考え込む。彼女は深い青紫色のガウンを纏っており、その裾が床に広がっていた。

「今のところ、特に変わった様子の者は見当たらないわ。でも——」

「でも?」

「一人、妙な質問をしてきた男がいたわね」

 細く長い指先が、机の端に置かれた煙管を手に取った。煙管は象牙細工で、その柄には蔦の模様が彫り込まれている。煙とともに香のような甘やかな匂いが立ち上る。

「黒い髪の女について、聞いてきたわ。この辺りに、私以外にもそういう女はいないかって」

「その男の特徴は?」

「背は高くなかった。痩せていて、神経質そうな顔つき。髪は茶色で、瞳は……確か、灰色だったかしら」

「それだけか?」

「ええ。あまり特徴のない男だったわ」

 彼女の濃紺の瞳が、燭台の光を反射して妖しく輝いた。

「強いて言えば、その男、妙に歪な空気感を纏っていたの。清浄であり倒錯的で」

「ふむ……」

 羊皮紙の擦れる音が、静かな室内に響いた。

「もしまた来たら、すぐに知らせろ」

「喜んで。私としては、毎晩でもお顔見たいのだけれど」

 リゼットが豪奢な寝台に近づき、絹の枕を抱え込むようにして、首を傾げた。その仕草は計算され尽くしていて、まるで一枚の絵画のようだった。

「ねえ、シェイル様」

 何かを強請るような顔つきに、シェイルは片眉をあげる。

「何だ」

「この前来た娘――あの秘書官の子、可愛らしいわね」

 どことなく挑発するような物言いだが、シェイルは何も答えない。彼は立ち上がり、窓の方へと歩を進めた。窓からは、街の灯りが見下ろせる。

「あの娘こそ、とっても綺麗な黒目黒髪じゃない」

「あれは、魔力値の底が見えるぐらい低い」

「そういう話をしているんじゃないのよ」

 リゼットは、香油で丁寧に手入れされている、自分の艶やかな髪をひと房指に巻き付けて、ぱらぱらと零した。月光を受けて、その黒髪は青く光るように見えた。

「あの子、貴方のことが、怖いのか――んー……やっぱり、好意を抱いているように感じたわ」

「……余計なことを言うな」

 シェイルは、うんざりした様子で立ち上がり、椅子にかけてあった上衣を羽織った。

「護衛は明日から配置。気をつけろよ」

 リゼットは、面白そうな獲物をみつけた、といった具合で口の端を釣り上げる

「ええ。貴方もね」

 客室に一人取り残されたリゼットは、小さなテーブルの上に置かれた銀の鈴を鳴らして人を呼ぼうと一瞬だけ考え、やめた。  

 部屋は再び静寂が支配していた。
 燭台の炎が小さく揺れ、壁に映る影が揺らめいた。  
 天窓から冴え冴えとした月光が落ちてくる。  
 リゼットは寝台の縁に腰を下ろし、煙管に火を点けた。紫煙が立ち上り、月光の中で渦を巻く。

「……似ているけれど似ていない。やっぱり()()()()欲しいわね」  

 小さく呟いて、煙を吐き出した。
 その煙は、ゆっくりと天窓へと昇っていった。
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