扉の向こうの王子様~終電帰りの限界社畜OL、玄関のドアを開けたら異世界と繋がっていました
「ディエルには会ったことがあるな」
「え……はい。春に、大聖堂で、あとは学術庁で……あの方、かなり神出鬼没ですよね」
「どんな印象だった?」
「優しくて、穏やかな方だと思いました。けど……」
「けど?」
「うーん、底が見えない感じ。本心は言ってない。なんていえばいいんだろう、目は笑っていても心は笑ってない、みたいな」
凛子は記憶を辿りながら、言葉を紡ぐ。
「閣下は、どう思われているんですか?」
その問いに、シェイルは少し間を置いた。
「優秀な聖職者だ。そして――」
言葉を切って、視線を落とす。
「俺の弟だ」
その声には、複雑な感情が滲んでいるように聞こえた。
◇◇◇
討伐隊の出発まで、残り一週間。
準備は順調に進んでいるが、まだやるべきことは山積みだった。
書架の上段にある資料を取ろうと、梯子に登った瞬間、お約束のように足を滑らせた。
「っ!」
凛子の体が宙に浮く。
床に激突する――そう思った時には、抱きとめられていた。
「……油断するな」
低い声。
見上げると、シェイルの顔がすぐ近くにあった。
「ご、ごめ……すいません」
凛子は慌てて身を捩ったが、筋肉質の腕はしっかり身体に巻き付けられたままだ。
「傷は? 開いてないか」
「だ、大丈夫。です」
なんなんだ、この状況は。まるで少女漫画的な展開にありそうな。
こんなに近くで、シェイルの顔を見るのは――。
「……閣下?」
「ああ」
シェイルは溜息を大きく吐いて、凛子を床に降ろす。
「気をつけろ。高い所の物は俺がとる」
有無を言わさぬ調子で、梯子を登り始めた。
「お前は下で指示を出せ」
言われるままに、淡々と資料を取り出していくその背中を見上げながら、凛子は懐かしさを覚えていた。だが、彼は過去に重なられる事を忌避している。不器用だけど、優しい所は変わっていない。そんな感想を隠して、作業を進めていった。
資料室の窓からは、既に夕焼けが見えていた。
「お前、この国に来てどのくらいになる?」
「えっと……半年くらいです」
「慣れたか?」
「まあ、なんとか」
凛子は笑う。
「最初は大変でしたけど、今は……楽しいです」
「楽しい?」
「はい。色々ありますけど、毎日が充実してますよ。優しい人たちに囲まれてますから」
こちらに背中を向けたままのシェイルは何も答えない。
少しの沈黙の後に問われた。
「――この国で、何をしたい?」
「何を……ですか」
「ああ。目標とか、夢とか」
「……正直、まだ分かりません」
「そうか」
「今は、この事件を解決したいです。あとは――」
言葉を切って、凛子は小さな決意表明を声にした。
「誰かの役に立ちたいです」
凛子がどのような顔をしているのか、シェイルは知らない。
彼女と、会話をする度に、頭の奥が痛む。
それなのに、もう少し声を聞いていたいと思う。
「何故だ」
「え?」
「何故、この国の人間ではないお前が?」
率直な言葉に、言葉が詰まる。
何故なのだろう。
この世界に来て、沢山の善意に助けられてきたから。
「それは……」
当然、そのままを伝えることは難しい。
「恩返し、したいのかなって思います。ちょっと漠然としちゃうけど。私、此処に来てから、本当に沢山の人たち、ラストゥーリャさん……閣下、にも、助けてもらいました。だから、その分を働いて返したい、かな」
梯子の上で、シェイルの手が止まる。
背中越しでも、彼が何かを考え込んでいる気配が伝わってきた。
西日が差し込む資料室の中、舞い踊る埃さえも金色の粒子のように輝いて見える。
「……お人好しだな」
ぽつりと、呆れたような声が降ってきた。
シェイルがゆっくりと梯子を降りてくる。手には目的の古い羊皮紙の束が握られていた。
「自分自身が襲撃を受けたばかりだというのに、他人の心配か」
「自分の心配もしてますよ。だから真面目に、訓練もしてますよ!」
床に降り立ったシェイルは、凛子に向き直ると、持っていた資料を無造作に彼女の腕の中へと押し付けた。だが、その手は直ぐには離れない。
資料の上に乗せた凛子の手に、シェイルの大きな手が、覆いかぶさるように触れた。熱い。
彼の体温が、手袋越しに伝わってくる。
シェイルは凛子の目をじっと覗き込んでいた。
その瞳は夕焼けの色を映して、燃えるような、それでいてどこか寂しげな茜色に見える。
「恩返しなど、考えなくていい」
それは、上官としての命令なのか、それとも別の感情からの言葉なのか。
凛子の心臓が大きく跳ねた。
シェイル自身も、自分の口から出た言葉に戸惑っているように見えた。
彼は微かに眉を寄せ、こめかみの辺りを片手で押さえる。
遠い記憶の中の誰かと、目の前にいる女が重なって見えた。
けれどその正体を確かめるには、何もかもが曖昧にぼやけていて輪郭さえ掴めない。
「……すまない。妙なことを言った」
「い、いえ……ありがとうございます」
手を離し、顔を背けたシェイルの表情は夕日の影に隠れて見えなかった。
耳の先が、夕日のせいだけではなく赤くなっているように見えるのは、凛子の願望が見せる幻だろうか。
「資料はそれで全部だ。……戻るぞ。日が暮れる」
足早に歩き出したシェイルの背中を、凛子は資料を胸に抱きしめながら追いかける。
先ほど触れられた手の甲が、まだじんわりと熱を持っていた。
「え……はい。春に、大聖堂で、あとは学術庁で……あの方、かなり神出鬼没ですよね」
「どんな印象だった?」
「優しくて、穏やかな方だと思いました。けど……」
「けど?」
「うーん、底が見えない感じ。本心は言ってない。なんていえばいいんだろう、目は笑っていても心は笑ってない、みたいな」
凛子は記憶を辿りながら、言葉を紡ぐ。
「閣下は、どう思われているんですか?」
その問いに、シェイルは少し間を置いた。
「優秀な聖職者だ。そして――」
言葉を切って、視線を落とす。
「俺の弟だ」
その声には、複雑な感情が滲んでいるように聞こえた。
◇◇◇
討伐隊の出発まで、残り一週間。
準備は順調に進んでいるが、まだやるべきことは山積みだった。
書架の上段にある資料を取ろうと、梯子に登った瞬間、お約束のように足を滑らせた。
「っ!」
凛子の体が宙に浮く。
床に激突する――そう思った時には、抱きとめられていた。
「……油断するな」
低い声。
見上げると、シェイルの顔がすぐ近くにあった。
「ご、ごめ……すいません」
凛子は慌てて身を捩ったが、筋肉質の腕はしっかり身体に巻き付けられたままだ。
「傷は? 開いてないか」
「だ、大丈夫。です」
なんなんだ、この状況は。まるで少女漫画的な展開にありそうな。
こんなに近くで、シェイルの顔を見るのは――。
「……閣下?」
「ああ」
シェイルは溜息を大きく吐いて、凛子を床に降ろす。
「気をつけろ。高い所の物は俺がとる」
有無を言わさぬ調子で、梯子を登り始めた。
「お前は下で指示を出せ」
言われるままに、淡々と資料を取り出していくその背中を見上げながら、凛子は懐かしさを覚えていた。だが、彼は過去に重なられる事を忌避している。不器用だけど、優しい所は変わっていない。そんな感想を隠して、作業を進めていった。
資料室の窓からは、既に夕焼けが見えていた。
「お前、この国に来てどのくらいになる?」
「えっと……半年くらいです」
「慣れたか?」
「まあ、なんとか」
凛子は笑う。
「最初は大変でしたけど、今は……楽しいです」
「楽しい?」
「はい。色々ありますけど、毎日が充実してますよ。優しい人たちに囲まれてますから」
こちらに背中を向けたままのシェイルは何も答えない。
少しの沈黙の後に問われた。
「――この国で、何をしたい?」
「何を……ですか」
「ああ。目標とか、夢とか」
「……正直、まだ分かりません」
「そうか」
「今は、この事件を解決したいです。あとは――」
言葉を切って、凛子は小さな決意表明を声にした。
「誰かの役に立ちたいです」
凛子がどのような顔をしているのか、シェイルは知らない。
彼女と、会話をする度に、頭の奥が痛む。
それなのに、もう少し声を聞いていたいと思う。
「何故だ」
「え?」
「何故、この国の人間ではないお前が?」
率直な言葉に、言葉が詰まる。
何故なのだろう。
この世界に来て、沢山の善意に助けられてきたから。
「それは……」
当然、そのままを伝えることは難しい。
「恩返し、したいのかなって思います。ちょっと漠然としちゃうけど。私、此処に来てから、本当に沢山の人たち、ラストゥーリャさん……閣下、にも、助けてもらいました。だから、その分を働いて返したい、かな」
梯子の上で、シェイルの手が止まる。
背中越しでも、彼が何かを考え込んでいる気配が伝わってきた。
西日が差し込む資料室の中、舞い踊る埃さえも金色の粒子のように輝いて見える。
「……お人好しだな」
ぽつりと、呆れたような声が降ってきた。
シェイルがゆっくりと梯子を降りてくる。手には目的の古い羊皮紙の束が握られていた。
「自分自身が襲撃を受けたばかりだというのに、他人の心配か」
「自分の心配もしてますよ。だから真面目に、訓練もしてますよ!」
床に降り立ったシェイルは、凛子に向き直ると、持っていた資料を無造作に彼女の腕の中へと押し付けた。だが、その手は直ぐには離れない。
資料の上に乗せた凛子の手に、シェイルの大きな手が、覆いかぶさるように触れた。熱い。
彼の体温が、手袋越しに伝わってくる。
シェイルは凛子の目をじっと覗き込んでいた。
その瞳は夕焼けの色を映して、燃えるような、それでいてどこか寂しげな茜色に見える。
「恩返しなど、考えなくていい」
それは、上官としての命令なのか、それとも別の感情からの言葉なのか。
凛子の心臓が大きく跳ねた。
シェイル自身も、自分の口から出た言葉に戸惑っているように見えた。
彼は微かに眉を寄せ、こめかみの辺りを片手で押さえる。
遠い記憶の中の誰かと、目の前にいる女が重なって見えた。
けれどその正体を確かめるには、何もかもが曖昧にぼやけていて輪郭さえ掴めない。
「……すまない。妙なことを言った」
「い、いえ……ありがとうございます」
手を離し、顔を背けたシェイルの表情は夕日の影に隠れて見えなかった。
耳の先が、夕日のせいだけではなく赤くなっているように見えるのは、凛子の願望が見せる幻だろうか。
「資料はそれで全部だ。……戻るぞ。日が暮れる」
足早に歩き出したシェイルの背中を、凛子は資料を胸に抱きしめながら追いかける。
先ほど触れられた手の甲が、まだじんわりと熱を持っていた。