扉の向こうの王子様~終電帰りの限界社畜OL、玄関のドアを開けたら異世界と繋がっていました
時を同じくして――王宮奥宮には、怠惰な空気が沈んでいた。
ミアリエルは窓辺に腰かけ、翡翠の目を外界へと投げていた。永い檻の向こう、煌めく街路が誘う。
「……退屈」
二番目の兄は討伐隊へ。
三番目の兄は大聖堂に籠もり。
長兄も父王も政務で姿はなく――母后と甥は風邪で伏せている。
誰も自分の存在を必要としない。
誰も、扉を叩きもしない。
「いいわ。慣れてるし」
侍女が席を外した隙――ミアリエルは滑らかに立ち上がった。
有能な侍女であるエマウが感冒で休んでいることは、この上ない好機だ。
先日、嫌がらせめいた結界の穴をようやく見つけた。
誰も止めないのなら――試さない理由はない。
前回は外宮で迷子になり、すぐに見つかってしまった。
だが今日は違う。
囮となる自身の欠片を、入念に散らしてある。髪。爪。微細な皮膚の欠片までも。ミアリエルの魔力の残滓を孕んだそれらを、枕の中へ、机の抽斗へ、香水瓶へ――小さく、巧みに。
寝台下に隠していた侍女服へ着替え、炭で黒髪を汚す。指先にも煤を纏わせる。
宝物庫からひっそり盗み出した、魔力抑制の首飾りを喉元へ掛ける。
奥宮は温い。甘い。
フードを深く被り、奥宮から外宮へ。
厨房横の倉庫に紛れ、飾り気のない板戸を抜ければ――そこにあるのは通用門。夕刻のざわめきがミアリエルの耳に忍び込む。
街の息吹だ。
「……本当に、出られた」
胸が、熱を帯びて跳ねた。このような至近距離では見たことのない露店。油の匂い。人々の笑い声。自由の全てが、五感を震わせる。外套の内側、縫い付けた小袋が、硬貨の音を微かに響かせた。見知らぬ世界に対する恐怖よりも先に、愉悦が駆け抜けたその時。
「はぁ……なんで」
振り返ると、青錆色の髪の青年――エイゼルが立っていた。
ラストゥーリャの側仕えの魔法師。
これは不運か、あるいは幸運か。
「一人で……来るところじゃないでしょう、ここは」
――会えた。
街の雑踏の中、彼の姿がある。
期待と昂りで、翡翠の目がぱっと輝く。
「ただのお散歩よ。魔力は封印中」
誇らしげに首飾りを示すと、返ってきたのは失望まじりの嘆息だった。
「今の時間帯に侍女服で? 護衛は?」
「エイゼルがしてくれれば、全部解決でしょう?」
「問題しかないから!!」
青年は頭を押さえ、深く息を吐く。
「とにかく帰る。危険すぎる」
「なんで! まだ買い食いもしてないのに!」
「はいはい。行きますよ、姫様」
半ば引き戻されるように歩き出した、その背後――
傾き始めた光の中、細い影が一瞬だけ揺れた。
ミアリエルは反射的に振り向く。
何もない。
けれど、胸奥に微かなざわめきが残った。
「気のせい……よね」