扉の向こうの王子様~終電帰りの限界社畜OL、玄関のドアを開けたら異世界と繋がっていました
◇◇◇
久方ぶりに蒼月亭の裏門をくぐると、甘い香草の匂いが凛子の鼻腔をくすぐった。
「いらっしゃい。来てくれたのね」
リゼットが、夜の花のような微笑みで迎えた。
「エルネストさんから、お話したいって――」
「その香油、気に入ってくれたみたいね?」
凛子が思わず、うなずく。
「はい……毎晩使わせてもらってます。ぐっすりで……夢も見ないくらい」
だが、その目元に濃い影が落ちているのは隠しようがなかった。
リゼットは、咎めるように細い指で隈の辺りを軽く突く。
「身体を温めて、マッサージするともっと良いのよ?」
そして茶目っ気を忍ばせて囁かれた。
「せっかく来てくれたんだから、お風呂、使っていきなさい」
凛子は一瞬迷った。だが、リゼットが小悪魔めいた声で押す。
「浴室なら、誰にも話せない話もできるでしょう?」
――確かに。
串焼きで小腹を満たしてしまった今、帰って寝るだけなのだ。
静謐な湯殿。
湯の反射光が石床を淡く照らし、湯気が思考を解かしていく。凛子は肩まで湯に沈み、ひとつ息を吐いた。張り詰めていた心が、じわりと解けていく。
「気持ちよさそうね」
水音とともに、リゼットが湯へと滑り込む。
ふたりはしばし、言葉を捨て、ただ温度を共有した。
「ねえ、――シェイル様は元気?」
「最後の連絡までは……順調っぽいです」
「そう。なら大丈夫ね」
リゼットは湯面にそっと指を滑らせる。
「でも……待つのは辛いって顔をしてる」
図星だ、と凛子はわずかに視線を伏せた。
「まあ……それより、話したいことってなんですか?」
警戒と期待が入り混じる視線を向けたその時――リゼットのまつ毛が震え、視線が凛子の背後へと流れた。
乱暴な音とともに、浴場の扉が弾ける。
「……え?」
濡れた空間へ、男たちが雪崩れ込む。リゼットが立ち上がろうとした瞬間、薄布が投げつけられた。重たく甘い、異様に濃い香り。
「っ……!」
凛子の膝が湯に沈む。
視界が、波打つ。
遠ざかる水音の向こう――リゼットの叫び声。
それすらも霞み、黒が押し寄せる。
意識が深い井戸へと、音もなく落ち、世界は閉ざされた。
学術庁にある叡智の塔主執務室の扉が叩きつけられた。
「大変です!」
ローワンの声が、空気を凍らせる。
「カミーヤ殿が……攫われました!」
作業していた術師たちが手を止め、室内が静まり返る。
次の瞬間、ラストゥーリャが机を揺らして立ち上がる。
「詳しく」
「例の娼館で……護衛二名は薬で眠らされ、気づいた時にはすでに――」
「魔術の痕跡は?」
「ありません……物理的誘拐です」
「……なるほど」
ラストゥーリャの拳が、白くなるほど握りしめられる。
「閣下には?」
「伝令は飛ばしましたが……」
沈黙。
張りつめた均衡が、ひび割れる音がした。
凛子が攫われた。
こちらが積み重ねてきた書き換えを、敵がさらに上書きする。
術式陣の均衡は、いまや薄氷。
一歩踏み外せば――全てが崩れる。
そして、疲労困憊の顔で戻ったエイゼルは、蒼月亭に凛子を送り届けた帰りに出くわした、とんでもない拾い物を、報告しそびれたままでいるのだった。
久方ぶりに蒼月亭の裏門をくぐると、甘い香草の匂いが凛子の鼻腔をくすぐった。
「いらっしゃい。来てくれたのね」
リゼットが、夜の花のような微笑みで迎えた。
「エルネストさんから、お話したいって――」
「その香油、気に入ってくれたみたいね?」
凛子が思わず、うなずく。
「はい……毎晩使わせてもらってます。ぐっすりで……夢も見ないくらい」
だが、その目元に濃い影が落ちているのは隠しようがなかった。
リゼットは、咎めるように細い指で隈の辺りを軽く突く。
「身体を温めて、マッサージするともっと良いのよ?」
そして茶目っ気を忍ばせて囁かれた。
「せっかく来てくれたんだから、お風呂、使っていきなさい」
凛子は一瞬迷った。だが、リゼットが小悪魔めいた声で押す。
「浴室なら、誰にも話せない話もできるでしょう?」
――確かに。
串焼きで小腹を満たしてしまった今、帰って寝るだけなのだ。
静謐な湯殿。
湯の反射光が石床を淡く照らし、湯気が思考を解かしていく。凛子は肩まで湯に沈み、ひとつ息を吐いた。張り詰めていた心が、じわりと解けていく。
「気持ちよさそうね」
水音とともに、リゼットが湯へと滑り込む。
ふたりはしばし、言葉を捨て、ただ温度を共有した。
「ねえ、――シェイル様は元気?」
「最後の連絡までは……順調っぽいです」
「そう。なら大丈夫ね」
リゼットは湯面にそっと指を滑らせる。
「でも……待つのは辛いって顔をしてる」
図星だ、と凛子はわずかに視線を伏せた。
「まあ……それより、話したいことってなんですか?」
警戒と期待が入り混じる視線を向けたその時――リゼットのまつ毛が震え、視線が凛子の背後へと流れた。
乱暴な音とともに、浴場の扉が弾ける。
「……え?」
濡れた空間へ、男たちが雪崩れ込む。リゼットが立ち上がろうとした瞬間、薄布が投げつけられた。重たく甘い、異様に濃い香り。
「っ……!」
凛子の膝が湯に沈む。
視界が、波打つ。
遠ざかる水音の向こう――リゼットの叫び声。
それすらも霞み、黒が押し寄せる。
意識が深い井戸へと、音もなく落ち、世界は閉ざされた。
学術庁にある叡智の塔主執務室の扉が叩きつけられた。
「大変です!」
ローワンの声が、空気を凍らせる。
「カミーヤ殿が……攫われました!」
作業していた術師たちが手を止め、室内が静まり返る。
次の瞬間、ラストゥーリャが机を揺らして立ち上がる。
「詳しく」
「例の娼館で……護衛二名は薬で眠らされ、気づいた時にはすでに――」
「魔術の痕跡は?」
「ありません……物理的誘拐です」
「……なるほど」
ラストゥーリャの拳が、白くなるほど握りしめられる。
「閣下には?」
「伝令は飛ばしましたが……」
沈黙。
張りつめた均衡が、ひび割れる音がした。
凛子が攫われた。
こちらが積み重ねてきた書き換えを、敵がさらに上書きする。
術式陣の均衡は、いまや薄氷。
一歩踏み外せば――全てが崩れる。
そして、疲労困憊の顔で戻ったエイゼルは、蒼月亭に凛子を送り届けた帰りに出くわした、とんでもない拾い物を、報告しそびれたままでいるのだった。