扉の向こうの王子様~終電帰りの限界社畜OL、玄関のドアを開けたら異世界と繋がっていました
 意識が浮上した時、凛子は、石の冷えを孕んだ薄暗がりの中にいた。身体には鉛のような倦怠がまとわりつき、後頭部に鈍い痛みが残っている。

 ――ここは、どこだろう。
 ――リゼットさんは。

 ぼんやりと呟き、周囲を見渡す。手足は拘束されていない。それでも、部屋は逃げ道を拒むように簡素だった。分厚い扉がひとつ。高窓がひとつ。そこから差す光は弱く、世界の色を奪っている。

「……起きました?」

 聞き覚えのある声に、凛子は痛む頭を押さえながら振り返った。壁に背を預けた男が、疲労の影を宿した目でこちらを見ていた。 図書院の、あの温和な青年。だが、緋色の瞳は――氷のように冷たい。

「ヒューゴ、さん?」

「体調、悪くないですか?」

 微笑みの形だけを口元に浮かべ、彼は言った。
 優しさの温度が欠片もない声で。

「よかった。しばらく目を覚まさないから、少し焦りました」

「……どうして」

「どうして、僕がここにいるのか?」

 ヒューゴは肩をすくめ、愉快そうに目を細める。

「決まってるじゃないですか。僕が、貴女を攫ったんです」

「嘘……」

「嘘じゃありませんよ」

 ヒューゴはゆっくりと部屋の中央へ足を進めた。
 一歩、二歩。
 その足取りの迷いのなさが、凛子の心にじわりと恐怖を染み込ませた。

「貴女をはじめて外宮で見かけた時から、決めていたんです」

「決めていたって、何を」

「簡単な事ですよ」

 指先で、ヒューゴは凛子を指差した。

「星霜通りで一緒に食事をした夜――覚えていますか?」

「あの夜……?」

「僕が急に倒れたでしょう。あれ、演技です」

 あまりにも軽い調子で言う。

「あなたを一人にするための、ね」

「じゃあ……」

「外宮で突き落としたのも僕です。でも、魔術具が作動してしまって邪魔された……本当に、惜しかったな」

 その声に滲んだ悔恨が、理性の歪みを物語っていた。

「なぜ……こんなことを」

「簡単ですよ」

 指先で、ヒューゴは凛子を指差した。

「貴女が――許せなかった」

「許せない?」

「僕は平民の身でそれこそ血の滲む思いをして必死に努力した。やっと中央に来られた。ところが貴女ときたら」

 抑えていたものが、激情として一気に噴き出す。

「突然現れて、賢者様の庇護を受けて。黒髪、黒い瞳――ただそれだけで特別扱いされて」

「待ってください」

「黙れ!!」

 怒号が石壁を震わせる。
 肩を震わせながらも、凛子は言葉を失った。

「僕が数年かけて積み上げたものを、あなたは数ヶ月で全部越えていった。……羨ましかった。妬ましかった」

「私は……仕事を――」

「仕事? あれが仕事? 子供の飯事じゃあるまいし」

 嘲るような声。

「だから決めたんです。貴女を使ってこの腐った国を壊す」

「壊す……? 王都の陣、ですか?」

「陣? 何の話です」

 ヒューゴは懐から黒い像を取り出した。
 不気味に歪む輪郭。

「とあるお方が、僕に道を指し示してくれました。終末の神がお救いくださる」

 像を優しく撫でながら囁く。

「そして、世界は、真に価値ある者が報われる。信じられない? でも、本当ですよ。すべてあの方が与えてくれた。この僕に」

 凛子の反問はヒューゴの耳には入らない。まるで自身に言い聞かせるように、ぶつぶつと呟きながら、くるりと背を向けた。扉を出る直前に、振り返りつまらなそうに吐き捨てる。

「言い忘れてました。ここはゼイレンです。アゼリアスからは遠いですね。残念ながら誰も貴女を助けに来ない」

 そういって、楽しげに笑う。

「暫く、大人しくしていてください。終末信仰の拠点であるこの場所では、貴女の髪と瞳には利用価値がある」

 そして、扉が閉ざされ、足音が遠ざかっていった。
 残された静寂。
 凛子は力が抜け、膝をついた。

 攫われた、という事なのだろうか。
 浴室内にいたため、あの時何も身に付けていなかった。シェイルから託された銀環も、通信用の魔術具も何一つここに無い。身に付けているのは、大きさのあっていないローブのみ。

 恐怖に飲まれてしまえば、沈むだけだ。
 まだ、凛子の思考は生きている。

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