扉の向こうの王子様~終電帰りの限界社畜OL、玄関のドアを開けたら異世界と繋がっていました
 聖王庁付属の静謐な書院。
 淡い蝋燭の灯りが、壁に揺らぐ。
 黒衣の魔術師である女は、瞼を閉じていた。
 彼女の眼差しは、以前の見せた柔らかい笑みの面影を残しながら、その奥に鋭い光を秘めていた。

 あの時――一人だけ記憶を操作出来なかった存在が居る。
 リゼットの魔術に予期せぬ抵抗を示した唯一の存在。

 王都を騒がせた通り魔事件後、蒼月亭にリゼットという女将が居たという記憶は、彼女と関わったすべての人間からは消え去っている筈だ。

 凛子を攫わせ、リゼットは表舞台から退場する。
 巧妙に記憶と証言を改竄しながら立ち回ってきたが、多少の齟齬が残るのは仕方ない。小娘一人の記憶など、さして問題にはならないであろう。

 豪奢な椅子に腰掛ける男は、彼女にとって既に馴染み深い相手だ。
 男が纏う陰鬱な香りも、些事と言ってしまえるような可愛らしい嫉妬心も。

 十四年前の絶望を機に、研究に勤しんだ隔離結界の紋様術式は不完全で、暴発した結果、ディエルは彼女の封印されていた地点へとたどり着いた。

 空間の共有者となった二人は、共犯者でもある。
 彼女の享楽は、彼の希望。
 
 ディエルがリゼットの手を取りその甲に口付けた。

「あとは……貴方が正しき行いをすれば良いのよ」

「問題はシェイルだな」

 抑えきれぬ焦燥が、声に滲む。
 リゼットは宥めるように微笑む。
 囁きは甘く、しかし冷たい。

「英雄は一度、疑われれば脆いもの――大衆が、裏切り者と叫べば、たちまち処刑台に送れるわ、それはどこの世界でも一緒でしょ」

 リゼットは指先で机を撫でる。

「民意など、記憶と同じく捻じ曲げられるもの、簡単に」

「正直な所、国という巨大な檻は欲しくはないんだ。そうだな、ただ、自由が欲しい」

 ディエルは疲れたような声で、背をリゼットに預ける。

「そして自由を奪いたい」

 昏い声が闇に落ちていく。

 彼の犯した罪が、彼女にとって何よりもの享楽となる。
 願いを希う感情そのもが、彼女にとっては極上の蜜だった。


< 204 / 218 >

この作品をシェア

pagetop