扉の向こうの王子様~終電帰りの限界社畜OL、玄関のドアを開けたら異世界と繋がっていました
 冬の名残を引きずる風が、頬を刺した。
 視界の向こう、深い霧に沈む国境山脈――あれが、イズラルの方角。

「トゥリローゼ救援……名目は、ですけど」

 小声で呟いた凛子に、横で騎獣を操るシェイルがちらと視線を寄越した。
 氷のような青灰の瞳。その奥には、言葉では掬いきれない焦燥が潜んでいる。

「名目でも構わない。帝国がロマーヌへ足を踏み入れた瞬間、火種は燃え上がる」

「戦争を……止めるための戦い、ですね」

 シェイルは短く頷いた。

「聖王の命により、部隊を三つに分ける。南部防衛、中央救援、そして――」

 鞍上で振り返り、続く将校たちを見渡す。

「奇襲隊は俺が指揮を執る」

 騎士たちの鎧が一斉に震え、金属音が刃先のように凛と響く。
 誰もが、この作戦が一歩間違えば全滅を意味することを理解していた。

 シェイルは獣を先に進め、部隊の先頭に立った。
 風が、彼の外套を大きくはためかせく。

「帝国の刃を――ここで折る。朋友の為に」

 その声の先に、不吉な戦雲が渦巻いていた。

 凛とした冷気を帯びた矢羽が、ぞっとするほどに静かに震えている。
 帝国軍の斥候が、既にこちらを窺っている証拠。

 息を吸った。
 吐く白い息が、すぐさま霧に飲まれる。

「カミ―ヤ」

 名前を呼ばれ、はっと顔を上げる。
 シェイルがこちらを見ていた。
 夜明け前の闇に沈む瞳で、それでも確かに自分を捉えて。

「離れるな。俺の視界の……届くところにいろ」

 それは命令であり、願いであり――ほんの少しだけ、弱さの滲んだ言葉に聞こえた。

「全軍、進軍――!」

 乾いた雪を蹴り上げ、馬蹄が一斉に轟く。
 夜明け前の戦場へ向かう、その音は、まるで運命の幕が上がる音のようだった。

 やがて、雪解けの泥に、黒い染みが点々と続いていた。
 馬を進めるたび、革の匂いと血の鉄臭さが鼻を刺す。

「……酷い」

 誰に向けたわけでもなく漏れた声が、白い息になって消える。
 前線から退けられたはずのロマーヌ辺境兵が、――倒れていた。

 まだ若い兵士も多い。
 武具は奪われ、胸甲はひしゃげ、顔には恐怖の刻まれたまま。

「帝国軍は……容赦が無いな」

 誰かの呟きに、隣の士官が歯を噛みしめる。

「――弔う時間は後だ!」

 先頭の指揮官が怒号を飛ばす。
 槍先を前方へ向けると、部隊が一斉に走り出した。

 ロマーヌ公国辺境の砦が見えた。
 トゥリローゼとロマーヌの境界に築かれた、簡素な前哨拠点。

 だが旗が、違う。

「え……?」

 掲げられているのは、帝国の黒双頭鷲だった。
 すでに奪われていたのだ。

「敵影! 構え――!」

 瞬間、闇の中から矢雨が降り注いだ。
 地面に突き刺さる音が耳を裂く。

「伏せろ!」

 叫んだカトレアの声と同時に、何本もの矢が間近を掠めた。
 砦の陰から、鎧を黒で塗りつぶした兵が次々と躍り出る。

 その装備は――帝国正規軍ではない。

「リィン、後ろだ!」

 振り向いた瞬間、槍が迫る。
 冷たい刃が頬を切り裂いた。

 血が、温かい。

 腰の短剣を抜き、相手の腕を払い、転がり逃れる。
 数歩の距離――殺されるには十分。

「離れるな、と言っただろう」

 低い声が頭上から落ちた。
 次の瞬間、兵士が吹き飛んだ。
 シェイルだった。

「閣下」

「予定変更だ」

 短く言い捨て、彼は砦を睨み据える。

「この前哨を確保する。帝国は既に動いている」

 その声は、冬の刃より冷たかった。
 目が合う。
 呼吸が、止まりそうになる。
 彼は何も言わない。
 けれど、その眼差しは――どこか痛みを抱えているようで。
 凛子の胸にひりつく疑問が残った。

「また、傷を付けている」

 シェイルの指先が、凛子の頬をなぞる。
 僅かな魔術痕を残し、傷跡が塞がった。

「すいません、足手纏いで。お前の仕事は砦についてからが本番だ」

 答えると、彼はわずかに目を細めた。
 その一瞬が、どうしようもなく美しく――怖かった。

「行くぞ。帝国の喉元を断ち切る」

 シェイルの剣が閃き、夜の闇を裂いた。

 知られざる真実へ。
 彼らの戦いは始まったばかりだった。

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