2Kの君~終電帰りの限界OL、自室のドアを開けたら異世界騎士の部屋と繋がっていました
ちくりとした痛みに顔を顰め、腕に目を遣ると、また手首辺りが裂かれ赤色を滲ませていた。
 前回のようにざっくりいかなかっただけマシかもしれない。
 傷口は忽ちのうちに塞がり、服を汚すことも無かった。

 エイゼルが持ってきた丸椅子に腰掛けると、男達の視線との距離が更に開いた。
 正面に賢者、その左にディエル、そして右に……先ほどから無言を貫いている男。やはり面接か何かを思い出させるこの状況に、凛子はなんとなく居心地悪そうにもぞりとする。

「…………」
「…………」
「…………」
「…………」

 隔離結界とやらが出来上がった状態だと思われるのに、なぜか誰も言葉を発さない。
 ならば、と口を開くと、思いの外、大きな声が室内に落ちた。

「えっとさ……」

 シェイルがびくりと体を揺らす。
 くすくす笑いのディエルは、賢者と似たように難しい顔のままだ。

「シャール、だよね」

 問われた当人は「ああ」と呻くように答えた。

「これ私の記憶があれだったら何とも言えないんだけど……勝手に私の家に押しかけて来た挙句、片付けろとか腹が減ったとか俺様は育ちが良いから床では寝れんとか言ったシャールだよね」

「――――な、にを……、……そんな事は厚かましい言い方はしていない!」

 ディエルが視線を伏せる。
 賢者がふいっと目を逸らす。

「露出狂だとかアル中だとか飼い犬にしたいと言ったよね?」

「勝手に話を作るな! 飼い犬に似ていると言ったんだ!」

「えー……じゃあさ、キスしてきた挙句深い意味は無いとかいって突き放したよね」 

 がた、とエイゼルが背中を書棚にぶつける。

「……していない」

 凛子が憂いを浮かばせる。

「そっか、気のせいか」

「――接吻はしたが突き放していない」

 憮然とした表情を浮かべる男に、記憶の色が重なる。
 手を伸ばせば届く距離にあるのに、とても遠い。

「純粋な疑問だけど……シャールってさあ、今……何歳?」

「三十二だが、お前は――四十になるのか」

 えええ! と驚愕の声を思わずあげたエイゼルを凛子は一瞥して、首を横に振った。

「んなわけないよ! まだ二十六!」

「――――どういう……」

「そういう事。……やっぱりね……」

 頭を抱え、凛子は唸る。

 彼女にとってたかだか数ヶ月前の出来事が、シェイルにとって十四年前の出来事だという事実。昨日の邂逅で半分以上予測はしていたものの、言葉として宣言されるとかなり重い。

 凛子がこちらに来て一週間以上が経過した。向こうではどれくらいの時間が流れたのだろうか。仕事は二週間以上の無断欠勤で間違いなく解雇されてしまう。願わくば、自分の世界で時がそれほど流れてしまわないうちに、帰りたい。

 今や、彼女の胸中を占有しているのは、記憶にある同居人に対する懐かしさだけではなかった。
 半分以上空気と化していたラストゥーリャが、我に返ったように続きを引き受ける。

 凛子を還す為の術式構成の基礎解析が終りそうな事。を都合よく言語が翻訳されている状態であるにも関わらず、難解な言葉で説明され、凛子の理解は少しだけ遅れた。

 自分はあの世界に帰りたいのだ、と強く意識した直後に保障された送還の言葉。
 複雑な表情を浮かべ凛子は視線を落とす。
 安堵と寂寥が綯い交ぜになって、感情の折り合いをつけるのが難しい。なぜだか、泣きたくなる。

 途中まで笑いを堪えていたディエルは、先ほどまで珍しく感情をむき出しにしていた兄を観察していた。そんな彼は今、むっつりとした表情でラストゥーリャと凛子の淡々としたやり取りを眺めている。

「ファルシオンの乙女の話、覚えているかいシェイル?」

「……なんだいきなり」

「天に住む青年が、地上に住む乙女に恋をした。青年は乙女を奪い天の国に連れ帰る。しかし乙女は毎日嘆き悲しみ、その涙は青年の命を削った。己を苛む耐え難い痛みと苦しみから、恋する乙女を青年は手放し、乙女は地上へと戻る。さて、天で千の月日が流れた或る日――」

「――――やめろ」

「只の物語じゃない」

 異なる時を生きる二人の、憎悪と喪失と忘却の悲劇。

「…………」

「いずれにしろ憎まれるのなら、僕なら手放さないなあ」

 隔離結界の効果が切れると、凛子を奪うようにしてシェイルは退室した。

◇◇◇

 ぐいぐい腕を引かれ、凛子は時々高い位置にあるシェイルの横顔を避難がましく見るが、ひたすら無言で足を進まされる。楕円をした広場を通り抜け、また別の入り口へ入る。長い回廊を渡り、奥へ奥へ。途中、華やかな衣装に身を包まれた人々が、流れる音楽に身を委ねている空間の前でシェイルは躊躇したように足を止めた。

 結局、凛子はその大広間の手前で、シェイルと似たような格好をしている青年に預けられた。そんなに長くは待っていない。通りすがる人を観察しているうちに、程なくしてシェイルは戻ってきた。それから、また奥へ。談笑と喧騒がだいぶ遠ざかった所で、とある部屋に引っ張り込まれた。

 ここまで二人の間の会話は完璧になかった。
 もちろん互いの語学力に関する問題が主に災いしている。

 四隅に設えられたトーチから燃え上がる炎が揺れる。
 暖炉に火は入っていなかった。
 飴色の家具。
 藍色のカーテン。
 記憶の中にある色重ね。
 寝間への扉に紋様は無い。

 恐る恐る凛子はその扉を開く。
 薄明かりに浮かぶ、室内の様子は、見た事のない場所だった。
 隣にあるのは、彼女の知る部屋ではない。彼女の部屋ではなかった。

 がっかりしたような顔をする凛子に、シェイルは自嘲気味に笑う。
 彼女に伝えたかった何かが、シェイル自身にも判らなかった。

「リィン」

 髪を軽く引っ張る。巻きつけては解きまた巻きつけては解く。

「黒だな。元もとの色は黒いと言っていたか」

「クロ」

「髪色が黒いな」

「いロ、クロ、カミ」

 んー、と眉を寄せ、凛子は呪文のように単語を唱え始める。
 シャールに辿りつくまでに覚えたこの世界の言葉。

「シャール、ベレー、ガーラント、クァルツ、ズァッヘン、チェザレ、ラいカ……」

「おい……後半、ぜんぶ酒じゃないか……」

 呆れた声に、凛子は笑う。

 あの時も確かこんな感じだった。
 とりとめもない話をして、それぞれが作業に集中して、会話が止まるときもあった。シェイルは凛子の髪を掬い上げ、名残惜しそうに放す。

 彼女の時間はあの日から殆ど動いていない。
 反して、長い時間をかけて重みを増した己の夢。
 あのとき共有した感覚が、彼にとって掛け替えの無い宝になったのに対し、彼女は違うのだろう。きっと。

 長い夢から強制的に排除され、彼は感情を持て余す。

 凛子を送りがてらの庭園では、睦み事を交わす密かな囁きがそこかしこにあった。
 呆れたような顔をしている彼女を急がせ夜の回廊へ出ると、用済みとなったのか、踏み拉かれた花冠が花びらを散らしていた。

 華宵の夜は、終る。

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