2Kの君~終電帰りの限界OL、自室のドアを開けたら異世界騎士の部屋と繋がっていました
薄桃色の花を弄び、少しだけ考えた後、彼女は切り離した花びらを一枚だけ手帳挟んだ。
ようやく手元に帰ってきた荷物を広げる。
チョコレートの包みは中身が無かった。
気落ちする心を追いやる。
欲を言えば、甘いものが食べたいと思っていたのだ。
衣食住を面倒見てもらっているうえに、ささやかな娯楽=酒まで出てくるのだから「ちょっと甘いもの食べたいんだけど」なんて要求はかなり図々しいだろう。
ロサ老人の家では、半地下になっている貯蔵庫で食料を保存していた。
絞ったベレーの乳は、金属製の筒にいれ保管するのだ。
まるで石自体がスイッチであるかのように、上部にある窪みに石を嵌めこむと、筒が冷えるといった具合だ。簡易の冷蔵庫的なものももしかしたらあるのかもしれない。もう少し小さい液体保存用の筒があれば持ち歩けるのに。
魔術は、凛子の想像以上に生活に浸透しているようだ。調理台に設置されてあった熱を維持するための魔術。浴槽に張られた湯温を保つための魔術。壁に設えてある照明の支え部分にも、鉱輝石を嵌め込む為の窪みがある。夜、室内を照らす灯りは柔らかで、蛍光灯ほどの明るさはないが、心落ち着く。
あらかた検分を済ませ、横になりながら手帳のページを捲った。懐かしくも遠い日常の欠片が散りばめられてある。何か記そう、と思いペンをとったのだが、いったい何から書き始めればいいのか思いつかなかった。結局、自分が世界の境界を跨いでしまった日にぐるぐると印を付ける。
夢は何も、見なかった。
◇◇◇
「で、あの後二人で消えて何していたの? 夜会に一瞬顔を出したのは君一人だけだったらしいけど」
「…………」
「数人の主賓に挨拶をして、とっとと辞したショーグン様は、仕事に戻るのかと思いきや、若い娘を連れまわしていたって噂」
むっつりと黙り込むシェイルに、ディエルがくすくす笑う。
内宮の個人庭園で寛いだ様子で語らう兄弟の様子は絵になる。
女官達は、茶の用意をしながら囁きあった。これが祝祭週間の事ならば、勇気を振り絞って、アンジェの花冠を渡していたのに。憧れを伝えるくらいは許されていたかも知れない。
しかし華宵の祭は終わり、既に忙しない日常が回り始めている。
「別に何もしていない。それより……なんでお前はここに居る」
「それ、酷いな。ここは僕の生まれ育った場所でもあるんだよ。今日はミリィの写本の様子を見に来たんだ」
庫院破壊に関してはただの事故として処理された為、ディエルが妹姫に個人的に与えた罰は、聖典を書き写すこと。全五巻に及ぶ長ったらしい聖典を凡て書き写すのは、筆が早い人間でも一月はかかる。
「大司祭自ら?」
「そう」
「奥宮は向こうだが」
「その手前に兄の部屋があるんだから、立ち寄ってもおかしくないじゃないか。しかも二日酔いで寝込んでいるなんて、見舞わない理由が無い」
痛いところをつかれ、シェイルは再び黙り込むと、女官が絶妙な間合いで茶を運んできた。
弟がカップを口に運ぶのを横目に、立ち上がる。
「飲まないの?」
「いらん」
振り返りもせず、東屋を後にする姿にディエルは軽く肩を竦めた。
騎士団の本部は外宮の東側にある。
ちょうど学術庁がおかれてある塔群の真反対に位置している。と言っても似たような塔がある訳ではなく、外宮の二階部分と渡り廊下で繋がっているさらに外側にある建物だ。執務室で補佐官から簡単な報告を受けた後、鍛錬所に向かった。
この春に新しく配属された若い候補生達は、姿を現した将軍に、慌てた様子で礼をとる。
「そのまま続けろ」
鷹揚に手を振るい、再開された打ち合いを眺める。
無駄な動きも目立つが、総じて云うならば今年は当たり年かもしれない。
模擬刀がたてる鈍い音が蒼穹に沁み消える。
アゼリアスは安寧の国だ。ここ何年も国を挙げての大きな争いは無い。それでも西国境を成す山脈を越え、大陸の覇者を目指すイズラルは、小規模ながら侵略を試みている。万が一、ロマーヌが落ちたら次はトゥリローゼ。砂漠地帯を抱えるエジンドラレスまで足を伸ばすのは、冬が過ぎた今暫くは困難だと思える。夏の砂漠のみちゆきは、容赦なく体力を奪うだろう。
しかしエジンドラレスが有する砂漠の国境線に比べ、冬将軍に支配されていた険しい山脈が形作るアゼリアスの国境線は、春から夏、そして秋の初め頃まで、その様相を幾分か和らげる。
雪が融け、固められた大地は、歩くのが困難であるものの、越えるのは不可能ではない。まして騎馬ならば。西国境にある砦の様子もそろそろ確りと見ておかねばならないだろう。
士官候補生の打ちこみが払われ、模擬刀が地を転がった。
足元に届いたそれを、シェイルは爪先で跳ね上げ、右手におさめる。
「もうしわけ、ありません!」
頬を高潮させた、候補生の一人が駆け寄る。
背はシェイルとおっつかっつだが、体の線はまだまだ細い。
「腕だけで押そうとするな。重心を低くし、体ごと力を入れるよう意識しろ」
「はいっ!」
「俺も少し体を動かすか――遠慮なく来い。誰からでもいいぞ」
感嘆に目を瞬かせた候補生達に、シェイルは忽ちのうちに囲まれた。
◇◇◇
蒼穹にゆったりと雲が流れている。
午前中、ラストゥーリャの執務室に呼び出されていた凛子は、昼食を済ませた午後、腹ごなしを兼ね、エイゼルと連れ立って外宮を歩いていた。
過ぎる景色は目新しい。
回廊から見下ろす庭園の彩りは、昨晩シェイルと歩いた場所にも似ているような気がする。しかし陽の光に浮かぶ花々は色鮮やかで、昨夜の秘め事が満ちた場所とは反して、健康的な印象の方が強い。
右手に見える堅牢な城門は開放されており、人の出入りが多く活気に溢れている。シェイルが身に着けていた制服に似た格好の青年達が、城門を護っているのが、彼女達の居る建物の二階部分から良く見える。エイゼルが着込んでいる物と揃いの服は、官吏服か何かなのだろうか。どこか役所と似た雰囲気の漂うこの一角でよく見かける。
「折角だから、街の様子も見せてあげたいんだけどね」
城下町へと伸びる道に、好奇心をおさえきれない様子の凛子に、エイゼルはそうひとりごちるが、許可が下りるかどうかは不明である。
彼女の存在は外宮において、異質だった。この場所を訪れる者の殆どには、明確な目的がある。それが彼女には無い。ただ、帰る日を待っているだけ。思えば、エイゼルが初めて凛子に会ったときから、彼女は彼女の世界へ帰る為の方法を探していたのだ。いくつかの単語を頼りに。
この世界ではないどこかに在るべき存在。
隣で微笑んでいる姿かたちは、自分と変わらないように見える。感情が有り、思考し、血の通う人間。――彼女の世界はここでは無いのだと云う。
ある日突然、なんの理由も無く、似ていて比なる場所へ転がり落ちてしまったら……自分ならどうなるのだろうか。基盤も、識る理も、何もかも奪われる。全く想像が付かない。だがしかし、手に届く距離に居る、凛子はそれを体験しているのだ。今尚、現在進行形で。
先ほどの会合でも、帰りたいとはっきり言っていた。
やらなければいけない仕事があるから。責任があるから。家族が居るから。皆が心配する。だから、出来るだけ早く帰りたいのだ。と――。
叡智の塔主指揮の元、彼女を送還する為の術式は順調に解析され、構築されつつある。稀有なる色持ちのこの娘は、いつか帰るのだろう。しかし、彼女と関わってしまった今、それもまたエイゼルには想像が出来ないのだった。
そこまで考え、ふと一人の人物が脳裏に浮かぶ。過去の時間で、かなり特殊な関係性を築いたであろう、聖王騎士団右将軍。凛子に特別な感情を抱いているであろう事は、彼を良く知らないエイゼルの目から見ても明らかだ。
恥ずかしながら、術式の解析や構築をかなり不得手とするエイゼルには、完璧に理解する事が出来なかったが、凛子を送還する為に将軍閣下は必要不可欠な存在らしい。彼が若かりし頃に使用した隔離結界を基礎とし、異なる界を繋ぐ。触媒はシェイルと云うこちらの世界の存在と凛子と云う外の世界の存在。当事者たる彼は、当然その事を理解している。
――特別な感情を抱いてる相手を自らの手で帰す。
「おーー! ああいうの見るのはじめて! 映画みたい!」
聞きなれない、けれども決して不快ではない、異世界の言葉が、エイゼルの思考に割り込んだ。
足早に回廊の端に寄った凛子は、身を乗り出すように石造りの手摺に手をかける。
剣戟の音が、風に乗って回廊に届く。
鍛錬なのだろうか――二人一組となって、騎士達が剣を打ち合っている様子が、彼らの居る場所からもよく見えた。
ようやく手元に帰ってきた荷物を広げる。
チョコレートの包みは中身が無かった。
気落ちする心を追いやる。
欲を言えば、甘いものが食べたいと思っていたのだ。
衣食住を面倒見てもらっているうえに、ささやかな娯楽=酒まで出てくるのだから「ちょっと甘いもの食べたいんだけど」なんて要求はかなり図々しいだろう。
ロサ老人の家では、半地下になっている貯蔵庫で食料を保存していた。
絞ったベレーの乳は、金属製の筒にいれ保管するのだ。
まるで石自体がスイッチであるかのように、上部にある窪みに石を嵌めこむと、筒が冷えるといった具合だ。簡易の冷蔵庫的なものももしかしたらあるのかもしれない。もう少し小さい液体保存用の筒があれば持ち歩けるのに。
魔術は、凛子の想像以上に生活に浸透しているようだ。調理台に設置されてあった熱を維持するための魔術。浴槽に張られた湯温を保つための魔術。壁に設えてある照明の支え部分にも、鉱輝石を嵌め込む為の窪みがある。夜、室内を照らす灯りは柔らかで、蛍光灯ほどの明るさはないが、心落ち着く。
あらかた検分を済ませ、横になりながら手帳のページを捲った。懐かしくも遠い日常の欠片が散りばめられてある。何か記そう、と思いペンをとったのだが、いったい何から書き始めればいいのか思いつかなかった。結局、自分が世界の境界を跨いでしまった日にぐるぐると印を付ける。
夢は何も、見なかった。
◇◇◇
「で、あの後二人で消えて何していたの? 夜会に一瞬顔を出したのは君一人だけだったらしいけど」
「…………」
「数人の主賓に挨拶をして、とっとと辞したショーグン様は、仕事に戻るのかと思いきや、若い娘を連れまわしていたって噂」
むっつりと黙り込むシェイルに、ディエルがくすくす笑う。
内宮の個人庭園で寛いだ様子で語らう兄弟の様子は絵になる。
女官達は、茶の用意をしながら囁きあった。これが祝祭週間の事ならば、勇気を振り絞って、アンジェの花冠を渡していたのに。憧れを伝えるくらいは許されていたかも知れない。
しかし華宵の祭は終わり、既に忙しない日常が回り始めている。
「別に何もしていない。それより……なんでお前はここに居る」
「それ、酷いな。ここは僕の生まれ育った場所でもあるんだよ。今日はミリィの写本の様子を見に来たんだ」
庫院破壊に関してはただの事故として処理された為、ディエルが妹姫に個人的に与えた罰は、聖典を書き写すこと。全五巻に及ぶ長ったらしい聖典を凡て書き写すのは、筆が早い人間でも一月はかかる。
「大司祭自ら?」
「そう」
「奥宮は向こうだが」
「その手前に兄の部屋があるんだから、立ち寄ってもおかしくないじゃないか。しかも二日酔いで寝込んでいるなんて、見舞わない理由が無い」
痛いところをつかれ、シェイルは再び黙り込むと、女官が絶妙な間合いで茶を運んできた。
弟がカップを口に運ぶのを横目に、立ち上がる。
「飲まないの?」
「いらん」
振り返りもせず、東屋を後にする姿にディエルは軽く肩を竦めた。
騎士団の本部は外宮の東側にある。
ちょうど学術庁がおかれてある塔群の真反対に位置している。と言っても似たような塔がある訳ではなく、外宮の二階部分と渡り廊下で繋がっているさらに外側にある建物だ。執務室で補佐官から簡単な報告を受けた後、鍛錬所に向かった。
この春に新しく配属された若い候補生達は、姿を現した将軍に、慌てた様子で礼をとる。
「そのまま続けろ」
鷹揚に手を振るい、再開された打ち合いを眺める。
無駄な動きも目立つが、総じて云うならば今年は当たり年かもしれない。
模擬刀がたてる鈍い音が蒼穹に沁み消える。
アゼリアスは安寧の国だ。ここ何年も国を挙げての大きな争いは無い。それでも西国境を成す山脈を越え、大陸の覇者を目指すイズラルは、小規模ながら侵略を試みている。万が一、ロマーヌが落ちたら次はトゥリローゼ。砂漠地帯を抱えるエジンドラレスまで足を伸ばすのは、冬が過ぎた今暫くは困難だと思える。夏の砂漠のみちゆきは、容赦なく体力を奪うだろう。
しかしエジンドラレスが有する砂漠の国境線に比べ、冬将軍に支配されていた険しい山脈が形作るアゼリアスの国境線は、春から夏、そして秋の初め頃まで、その様相を幾分か和らげる。
雪が融け、固められた大地は、歩くのが困難であるものの、越えるのは不可能ではない。まして騎馬ならば。西国境にある砦の様子もそろそろ確りと見ておかねばならないだろう。
士官候補生の打ちこみが払われ、模擬刀が地を転がった。
足元に届いたそれを、シェイルは爪先で跳ね上げ、右手におさめる。
「もうしわけ、ありません!」
頬を高潮させた、候補生の一人が駆け寄る。
背はシェイルとおっつかっつだが、体の線はまだまだ細い。
「腕だけで押そうとするな。重心を低くし、体ごと力を入れるよう意識しろ」
「はいっ!」
「俺も少し体を動かすか――遠慮なく来い。誰からでもいいぞ」
感嘆に目を瞬かせた候補生達に、シェイルは忽ちのうちに囲まれた。
◇◇◇
蒼穹にゆったりと雲が流れている。
午前中、ラストゥーリャの執務室に呼び出されていた凛子は、昼食を済ませた午後、腹ごなしを兼ね、エイゼルと連れ立って外宮を歩いていた。
過ぎる景色は目新しい。
回廊から見下ろす庭園の彩りは、昨晩シェイルと歩いた場所にも似ているような気がする。しかし陽の光に浮かぶ花々は色鮮やかで、昨夜の秘め事が満ちた場所とは反して、健康的な印象の方が強い。
右手に見える堅牢な城門は開放されており、人の出入りが多く活気に溢れている。シェイルが身に着けていた制服に似た格好の青年達が、城門を護っているのが、彼女達の居る建物の二階部分から良く見える。エイゼルが着込んでいる物と揃いの服は、官吏服か何かなのだろうか。どこか役所と似た雰囲気の漂うこの一角でよく見かける。
「折角だから、街の様子も見せてあげたいんだけどね」
城下町へと伸びる道に、好奇心をおさえきれない様子の凛子に、エイゼルはそうひとりごちるが、許可が下りるかどうかは不明である。
彼女の存在は外宮において、異質だった。この場所を訪れる者の殆どには、明確な目的がある。それが彼女には無い。ただ、帰る日を待っているだけ。思えば、エイゼルが初めて凛子に会ったときから、彼女は彼女の世界へ帰る為の方法を探していたのだ。いくつかの単語を頼りに。
この世界ではないどこかに在るべき存在。
隣で微笑んでいる姿かたちは、自分と変わらないように見える。感情が有り、思考し、血の通う人間。――彼女の世界はここでは無いのだと云う。
ある日突然、なんの理由も無く、似ていて比なる場所へ転がり落ちてしまったら……自分ならどうなるのだろうか。基盤も、識る理も、何もかも奪われる。全く想像が付かない。だがしかし、手に届く距離に居る、凛子はそれを体験しているのだ。今尚、現在進行形で。
先ほどの会合でも、帰りたいとはっきり言っていた。
やらなければいけない仕事があるから。責任があるから。家族が居るから。皆が心配する。だから、出来るだけ早く帰りたいのだ。と――。
叡智の塔主指揮の元、彼女を送還する為の術式は順調に解析され、構築されつつある。稀有なる色持ちのこの娘は、いつか帰るのだろう。しかし、彼女と関わってしまった今、それもまたエイゼルには想像が出来ないのだった。
そこまで考え、ふと一人の人物が脳裏に浮かぶ。過去の時間で、かなり特殊な関係性を築いたであろう、聖王騎士団右将軍。凛子に特別な感情を抱いているであろう事は、彼を良く知らないエイゼルの目から見ても明らかだ。
恥ずかしながら、術式の解析や構築をかなり不得手とするエイゼルには、完璧に理解する事が出来なかったが、凛子を送還する為に将軍閣下は必要不可欠な存在らしい。彼が若かりし頃に使用した隔離結界を基礎とし、異なる界を繋ぐ。触媒はシェイルと云うこちらの世界の存在と凛子と云う外の世界の存在。当事者たる彼は、当然その事を理解している。
――特別な感情を抱いてる相手を自らの手で帰す。
「おーー! ああいうの見るのはじめて! 映画みたい!」
聞きなれない、けれども決して不快ではない、異世界の言葉が、エイゼルの思考に割り込んだ。
足早に回廊の端に寄った凛子は、身を乗り出すように石造りの手摺に手をかける。
剣戟の音が、風に乗って回廊に届く。
鍛錬なのだろうか――二人一組となって、騎士達が剣を打ち合っている様子が、彼らの居る場所からもよく見えた。