扉の向こうの王子様~終電帰りの限界社畜OL、玄関のドアを開けたら異世界と繋がっていました
第四章

彼女の憂鬱、彼の欺瞞

 突き放すような声に、胸が抉られる。
 冷たい声に、身を竦まされる。
 底なしの海に、突き落とされていくような感覚。
 地上の光が遠くなる。
 手を伸ばしても、もう届かない。

◇◇◇

 明けの空の境界が、薄藍色と桜色に滲み始めている。

 目覚まし代わりに窓を開け放つと、涼しすぎるくらいの風が抜ける。彼女が今居るこの地は、大陸の北に位置しているお陰か、盛夏でも過ごしやすかったが、その季節は駆け足で過ぎていった。

 王都ガーラントはいよいよ本格的な秋を迎える。

 洗面室で顔を洗い階下へと降りると、かなりの早朝にも関わらず、厨房から忙しそうな声が聞こえてくる。ひょいと顔を覗かせ「おはようございます」と挨拶すると「嬢ちゃんおはよう!」と厨房長の元気よい声が返って来た。

「お手伝いします」
「じゃ、これ運んでくれ」

 太い腕に乗せられた籠には焼きたての丸パンがいくつも入っていた。彼女は好物のそれを認め、笑顔を零す。食堂のテーブルに籠を置き、厨房へと戻る。流れ作業のように次々と渡される料理をすべて並べ終えた頃、この家の主が姿を現した。

 不機嫌そうな顔つきはいつも通り。
 上座に座った主が「早いですね」と零す。
「おかげさまですっかり早寝早起きですよ」
 朝のお茶を給仕し、彼女も座る。

 野菜スープ。果実のジュレ。卵料理。丸パン。至ってシンプルな料理だが、どれもこれも美味で彼女の口にあっていた。特に毎朝厨房長の手によって焼き上げられるパン類は絶品だ。

 数ヶ月前の自分ならば、手っ取り早く血糖値をあげる為に、目覚めとともにチョコレートをひとかけら口に放り込み、目覚まし代わりの珈琲を飲むのもそこそこに、慌ただしく出社していた。ふと日本での生活に思いを馳せていると闇色の瞳がこちらを見ていた。

「何ですか?」
「中央朝議に顔を出してから行くので、午前中は引き続き書架の資料整理を頼みます。判断に困る物はエイゼルに聞いて下さい」
「了解でーす」

 騎士達のする敬礼の真似事をして片手をあげると、賢者はなんとも言えない表情を浮かべた。

 驚く事なかれ、現代日本で編集者をしていた凛子は、いまや国政の一端を担う国家公務員もどきである。アゼリアス聖王国学術庁天文院長官付き管理官補佐のリィン・カミーヤと記録された身分証を手にした時は、現実逃避しかかったが、この世界で生きて行く事を受け入れる事が漸く出来た気がした。

 あれから……とても散々な目にあったのだ。
 だいぶ端折って説明すると、異なる界を無理矢理重ねて形成された隔離結界は、時間の制約やらもろもろを組み込んだお陰で、暴発した……らしい。
 
 実は『もろもろ』の箇所が一番重要なのだが、魔術やら魔法やらとは縁のない生活をしてきた凛子にはいまいち理解できなかった。
 
 暴発した術はシェイルと凛子からいくつかのものを奪い、押し付けた。
 シェイルからは凛子に関するあらゆる記憶を。

 凛子からは還るべき細い道を奪い、この世界の理を押し付けた。
 暴発の影響からシェイルが凛子に関するあらゆる記憶を失ったという事だけは、はっきりと判る。
 混乱のただ中で突きつけられたあの怜悧な視線。
 不審者に向けられた冷酷な表情を、彼女は知っていた。
 それはかつて自分の部屋で彼が彼女に見せた物と同質のものだったからだ。

 そして不幸を味わう間もなく突きつけられたのは、帰る手段を永久に近い形で失ったという事実だった。緻密な術が練り込まれた扉は跡形も無く消え去り、唯一凛子の世界への繋がりを記憶していたシェイルは、それを失くした。

 同様の術を用いてシェイルの魔力以外で界を超えた隔離結界を生成したとしても、確実にそれが凛子の世界と繋がる保証は無いらしい。
< 55 / 76 >

この作品をシェア

pagetop