扉の向こうの王子様~終電帰りの限界社畜OL、玄関のドアを開けたら異世界と繋がっていました
 黙り込んでしまった凛子を眺めていた男は、自然な所作で女の背中に右手をあてて寝台から立ち上がらせた。左手は凛子の右手をとり、しっかりとエスコートの体制だ。流されるまま、円卓へと案内され、凛子は給仕の青年が無言で勧めた陶磁器のカップを手にする。

 一口飲んで、ぶっと吹いてしまう。今度こそはっきりと目が覚めた。カップの中で揺れるのは濃い飴色。

「おやおや、お気に召さなかったかな?」

 いつの間にか、目の前の椅子をひき座っていた男が、面白げに首を傾げる。相変わらず言っている事が理解できないが、凛子は改めてカップに口をつけ、液体を一気に嚥下した。ほうじ茶の匂いがするチョコレート味のお茶を。

「……ナニ?」

 自分の言葉は果たして通じているのだろうか。不安になり凛子は男をじっとみつめる。

「気に入った? ピエヌ茶だよ」

「ピエヌ」

「そう、ピエヌ。君はそれが好きなのだろう? 違う?」

 見れば見るほど、彼女の知る男の面影を残している。
 泣き黒子なんてあったかなと、記憶を手繰り寄せ、やっぱり違うと首を振る。

 仕事柄、フィルムのチェックは日常茶飯事。モデルを使用した写真の場合、色合いから表情まで、事務所の許諾や編集部の意見の足並みが揃うまで、繰り返し行っていた。

 仮初の同居人と、目の前に居る男は別人だ。もしも目の前の男が彼ならば、もっと感動的な再会場面があっても良いだろう。

「表情がくるくる変わるね」
 それに――
「僕をそんなに見つめる女性は居なかったな。今まで」

 歌うように男は言う。

「さてと、エイゼルもおいで」

 名を呼ばれるまで、完全に扉の外で空気となっていたエイゼルは、背筋を伝う嫌な汗を感じた。恐る恐る室内を覗き込んだ瞬間、黒い瞳がこれでもか、という位見開かれる。

 かしゃんと、陶器のカップを凛子が落とした。

「――――、エイゼルっ!!」

 怒気をはらんだ声が、室内に響く。

「駄目だよ子猫ちゃん」

 立ち上がりかけた凛子の腕を、男が掴む。そしてそのまま引き寄せた。
 自分を制する腕の強さに、凛子が目を白黒させているうちに、抱え込まれる。

「やれやれ子猫ちゃんはご機嫌斜めなのかな」

 耳音に落とされる声音はどこまでも優しい。囁きとともに耳朶を噛まれ、今度こそぎょっとして身を竦ませた。

 瞬間的に沸き起こった怒りも吹き飛ばされる。

「……ナニ?」

「僕はディエ……そうだなディル。が良いかな」

 横抱きにされ、凛子の視界には言葉を紡ぐ男の唇しか見えない。距離が近すぎるのだ。

「僕の名前はディル。判るかな? リィン」

 名前を呼ばれて、瞬きをする。

「ディル。そう呼んで? リィン」

「ディ、ディル」

「そうだよ宜しくリィン。愛らしい子猫。ようこそ僕の箱庭へ」

 流れるような音節の組み合わせが流れたのを最期に、凛子の意識がぷつりと遮断された。

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