扉の向こうの王子様~終電帰りの限界社畜OL、玄関のドアを開けたら異世界と繋がっていました
◇◇◇
「いや俺も知らない」
「なんだー。文官の一般常識かと思った」
疲れたような顔で、机に突っ伏した凛子の横で、エイゼルが冊子を捲っている。
「言語学研究しているヤツとかじゃないと西方大陸の古語なんて勉強しないんじゃないの? しかも一地方の古語でしょ?」
「辞書とかあるのかなあ」
机に頬を付けたまま積み上げられた冊子に視線をやる凛子の横で「やべ頭痛くなってくる」とエイゼルもまた似たような表情を浮かべる。
「なんて言葉で探してるのさ?」
「アワモリ」
「随分、変わった音節だなそれ。因みに意味は聞かなくても判るような気がするけど聞いとく」
「二ホンにおけるサケの種類。南国地方の特産品」
案の定、エイゼルの予測通りの答えが返ってきた。
残念ながら、ビールという単語に近いものはこの世界に有ったのだ。
お酒ではなくオセロに似た盤上ゲームで『ビーリュン』という単語はあった。
ニホンシュだと長すぎて流石に掠らないだろうと考えた末、三・四文字の日本語で思い浮かんだのが『泡盛』だったのである。これらの紀行文のどこかに『アワモリ』という文字列が隠されている筈。
「ま、まあ、そのうち……読めるようになる気が……全くしない」
胡乱な目で背表紙を眺めていると、唐突に扉が開かれる音がした。
これはある種の条件反射のようなもので、凛子はすっと背を起こし、何食わぬ顔で手元にあった冊子の頁を機械的にめくり始める。何か言いたそうな咳払いに、小さく肩をすくめそろっと背後を振り返ると、予想通り、無愛想な顔でそこに居た。
ラストゥーリャの執務室横の小部屋は、凛子とエイゼルの井戸端会議に使用されることが多く、執務室に二人の姿がそろってない場合、且つ、何かの指示を与えられていない場合、賢者の部下達はこの場所で何かしら盛り上がっている事が多い。もちろん仕事に一部関するものが殆どではあるが。
だたっぴろい王宮内とはいえ、凛子が行ける場所はまだまだ少なく、結果的にラストゥーリャの目の届く範囲に居ざるを得ない。ゆえに、彼女の主は容易に彼女を捜し当てる。今日はお使いが多いな。と席を立つと「いや、お前はいい」とあっさり遮られ、ラスト-リャはエイゼルだけを呼びつけ出て行った。再び閉ざされた扉をぼんやり見つめ、凛子はのっそりと腰掛ける。
ああ、まただ。
這い上がってくる暗い感情を抑え込むように、先ほど借り受けた冊子に手を伸ばすも、文字を見る気分ではなくなってしまった。
彼らに近い場所で暮らしていても、凛子の知る事はほんの一握りだ。
OJTも無い新入社員の立場は中々苦しい。自分で仕事をもぎ取ってこなければいけないのだろうが、この職場はやすやすと彼女を受け入れてくれているわけではない。
ラストゥーリャの後ろ楯があってこその、リィン・カミーヤ。
指示されたことを淡々とこなすだけならば、自分ではなくても良いのだ。それにも関わらず、ラストゥーリャが自分を傍に置いておいてくれるのは、彼の善意だ。凛子が帰れないのは、誰の所為でもないのに。
以前、シェイルの部屋と凛子の部屋が繋がってしまったのは人為的災害だったのかもしれないが、凛子がこの世界に紛れ込んだ事自体は、天災である。ラストゥーリャやエイゼルが、凛子が帰る道を、現在進行形でなおも模索してくれているのを知っている。知っているのに、何もできない。それが歯痒い。ただただ好意に甘んじているだけでは駄目だ、せめて自分にできることは無いだろうか。
考えても出てこなかった答えの代わりに、こうやって居場所を与えられているだけで、今日という日も暮れようとしていた。
終業を告げる鐘の音に、凛子は弾かれるように頭を上げた。
「さいてー……」
社会人にあるまじき事に、転寝してしまっていた。
部屋を後にしたエイゼルとラストゥーリャが、まだ戻ってないのが幸いだった。凛子は少し重たい頭に手をあて、小さな溜息を落とす。まったくもって、最近の自分は自分を甘やかしすぎている気がする。
それでも、一日、せめて半歩でも進まなければいけない。
ごく狭いコミュニティに属している凜子にとって、職場ですれ違い顔見知りとなり、会話を交わすようになった誰かと、仕事帰りに待ち合わせるなどという行為は革新的な行為でもある。
保護者気質の強いラストゥーリャに知られれば、お小言どころでは済まなそうな気もする。
そんなラストゥーリャと出て行った、自称お目付け役のエイゼルもまた戻ってきていない。
日報の隅に、目的地の単語をひとつ書き込むと、凜子は叡智の塔を後にした。
「いや俺も知らない」
「なんだー。文官の一般常識かと思った」
疲れたような顔で、机に突っ伏した凛子の横で、エイゼルが冊子を捲っている。
「言語学研究しているヤツとかじゃないと西方大陸の古語なんて勉強しないんじゃないの? しかも一地方の古語でしょ?」
「辞書とかあるのかなあ」
机に頬を付けたまま積み上げられた冊子に視線をやる凛子の横で「やべ頭痛くなってくる」とエイゼルもまた似たような表情を浮かべる。
「なんて言葉で探してるのさ?」
「アワモリ」
「随分、変わった音節だなそれ。因みに意味は聞かなくても判るような気がするけど聞いとく」
「二ホンにおけるサケの種類。南国地方の特産品」
案の定、エイゼルの予測通りの答えが返ってきた。
残念ながら、ビールという単語に近いものはこの世界に有ったのだ。
お酒ではなくオセロに似た盤上ゲームで『ビーリュン』という単語はあった。
ニホンシュだと長すぎて流石に掠らないだろうと考えた末、三・四文字の日本語で思い浮かんだのが『泡盛』だったのである。これらの紀行文のどこかに『アワモリ』という文字列が隠されている筈。
「ま、まあ、そのうち……読めるようになる気が……全くしない」
胡乱な目で背表紙を眺めていると、唐突に扉が開かれる音がした。
これはある種の条件反射のようなもので、凛子はすっと背を起こし、何食わぬ顔で手元にあった冊子の頁を機械的にめくり始める。何か言いたそうな咳払いに、小さく肩をすくめそろっと背後を振り返ると、予想通り、無愛想な顔でそこに居た。
ラストゥーリャの執務室横の小部屋は、凛子とエイゼルの井戸端会議に使用されることが多く、執務室に二人の姿がそろってない場合、且つ、何かの指示を与えられていない場合、賢者の部下達はこの場所で何かしら盛り上がっている事が多い。もちろん仕事に一部関するものが殆どではあるが。
だたっぴろい王宮内とはいえ、凛子が行ける場所はまだまだ少なく、結果的にラストゥーリャの目の届く範囲に居ざるを得ない。ゆえに、彼女の主は容易に彼女を捜し当てる。今日はお使いが多いな。と席を立つと「いや、お前はいい」とあっさり遮られ、ラスト-リャはエイゼルだけを呼びつけ出て行った。再び閉ざされた扉をぼんやり見つめ、凛子はのっそりと腰掛ける。
ああ、まただ。
這い上がってくる暗い感情を抑え込むように、先ほど借り受けた冊子に手を伸ばすも、文字を見る気分ではなくなってしまった。
彼らに近い場所で暮らしていても、凛子の知る事はほんの一握りだ。
OJTも無い新入社員の立場は中々苦しい。自分で仕事をもぎ取ってこなければいけないのだろうが、この職場はやすやすと彼女を受け入れてくれているわけではない。
ラストゥーリャの後ろ楯があってこその、リィン・カミーヤ。
指示されたことを淡々とこなすだけならば、自分ではなくても良いのだ。それにも関わらず、ラストゥーリャが自分を傍に置いておいてくれるのは、彼の善意だ。凛子が帰れないのは、誰の所為でもないのに。
以前、シェイルの部屋と凛子の部屋が繋がってしまったのは人為的災害だったのかもしれないが、凛子がこの世界に紛れ込んだ事自体は、天災である。ラストゥーリャやエイゼルが、凛子が帰る道を、現在進行形でなおも模索してくれているのを知っている。知っているのに、何もできない。それが歯痒い。ただただ好意に甘んじているだけでは駄目だ、せめて自分にできることは無いだろうか。
考えても出てこなかった答えの代わりに、こうやって居場所を与えられているだけで、今日という日も暮れようとしていた。
終業を告げる鐘の音に、凛子は弾かれるように頭を上げた。
「さいてー……」
社会人にあるまじき事に、転寝してしまっていた。
部屋を後にしたエイゼルとラストゥーリャが、まだ戻ってないのが幸いだった。凛子は少し重たい頭に手をあて、小さな溜息を落とす。まったくもって、最近の自分は自分を甘やかしすぎている気がする。
それでも、一日、せめて半歩でも進まなければいけない。
ごく狭いコミュニティに属している凜子にとって、職場ですれ違い顔見知りとなり、会話を交わすようになった誰かと、仕事帰りに待ち合わせるなどという行為は革新的な行為でもある。
保護者気質の強いラストゥーリャに知られれば、お小言どころでは済まなそうな気もする。
そんなラストゥーリャと出て行った、自称お目付け役のエイゼルもまた戻ってきていない。
日報の隅に、目的地の単語をひとつ書き込むと、凜子は叡智の塔を後にした。