扉の向こうの王子様~終電帰りの限界社畜OL、玄関のドアを開けたら異世界と繋がっていました
 街が夜の色に染められている。

 そこかしこから、胃を刺激する匂いが漂ってくる。ぐうと鳴ったお腹を片手で押さえ、凜子は左右の店舗をきょろきょろと眺めていた。一人で歩いていたら、それこそひったくりの類の標的になっていたかもしれないが、一応隣には成人した男性が居てくれる。見た目こそは柔和そうだが、上背はそこそこある為、盾のひとつくらいにはなってくれるかもしれない。

 入り組んだ路地をいくつか抜けて、少しだけ奥まったところに、その店はあった。

「おすすめは白身魚の香草焼きと、秋野菜のパイ。それから名物の青スープですね」
「じゃあ、それで!」
 即答した凜子に、ヒューゴは片目を瞑る。
「食事のお供にキュリーはいかがでしょうか」
「大好きですっ!」
 魚料理に合いそうな、シャンパン風の爽やかな酸味のある発泡酒を思い出し、凜子は同意の笑みを返す。
「飲みやすいけれど、そこそこ度数も高いですし、気をつけてくださいね」
 すこし茶化したような声音でヒューゴが続けるが、どこぞの悪い男が言いそうな台詞は、あまり目の前の男には似合わない。
「大丈夫です。一杯くらいじゃ酔えないので!」

 凜子の言葉に、ヒューゴは一瞬だけ目を瞬かせ、それからまた微笑んだ。

 ほどなくして運ばれてきた料理はどれも絶品だった。
 食通であるヒューゴの舌は確かなもので、残さず平らげた凜子は、四杯目となるキュリーのグラスを片手に上機嫌である。

 アルコールは人との距離を縮め警戒心を緩ませる。
 凜子よりかは少しだけ遅めのペースでグラスを傾けていたヒューゴの頬は健康そうな色に染まっている。

「しかしエイゼルさんも無粋な人だ」
 ふと思い出したように言葉にしたヒューゴの言葉に、凜子は結局賢者の執務室に戻ってこなかった青錆色の男を思い浮かべる。
「これでも――勇気を出してお誘いしたんですよ」
 と少しだけ拗ねたように続けたヒューゴは、じっと緋色の瞳で凜子を見つめた。

「僕はもう少し貴女の事を知りたいんです。好きな食べ物、好きなお酒の種類だけではなく……もっと私的な部分も。貴女には大いなる秘密が隠されているように見えるんですよね。どこか捉えどころが無い。突然この聖王庁に現れたかと思ったら、叡智の塔主の直属としてたちまちその辣腕を振るい始めた」

「辣腕なんてっやめてください! 使い走りばかりですもん!」

「賢者への取次ぎを介すのは、貴女を通すのが一番早いと評判です。実際、僕なんてお会いもした事のない雲上の存在だ。そんな高官の信頼を得ている貴女は、それを傘に着ることも無く、こうして僕なんかとも食事を共にしてくれる」

「いやいやいや! ヒューゴさんって、学舎卒業されてるんですよね? 実力で中央官庁まできたってことですよね? そっちの方が凄くないですか!? 私はほら……遠縁だから縁故でごり押し入庁……まったく誇れる所無いんですけどっ」
 ヒューゴはグラスを指先で弾く。ふ、と自嘲気味に笑ったように見えた。
「中央官庁で働きたいと思ったことは、あるんですか?」

「官庁じゃなくても、働いていたいかなあ……」
 ヒューゴの問いにしばし考えて返した凜子の言葉は、答えにはなっていない。
 消えた言葉尻には、自問も含まれている。
 
 この世界に在ってもいい者として
 誰かの何かの役に立つ事をしていないと
 きっと気が狂う。

 どっと隣席で笑い声があがる。

 柔らかな室内灯の明かりに、大きく手を叩く影が揺らめく。始まった歌声に重なる声と拍手。何かのお祝い事だろうか。ひときわ大きな皿料理が運ばれてきて、歓声があがる。お世辞にも上手とは言えない合唱が、思考の淵を覗き込んでいる凜子を、現実へと引き戻した。
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