扉の向こうの王子様~終電帰りの限界社畜OL、玄関のドアを開けたら異世界と繋がっていました
無事用を足して、手水鉢で手を清めると、女官が柔らかい布を手渡してくれる。
庭の木立向こうにあるであろう街が見えないだろうかと、ついつい背伸びをしてしまう。
少しばかり歩いたことによって、眠気が吹き飛んだようだ。夜風にのる花の香りに、ミアリエルはうっとりと目を細める。
春なのだ。
夜の散歩――しかも奥宮ではない場所を歩いている。
広間へと戻る道すがら「エマウは誰かに花冠を渡すの?」なんとなく高揚する心のまま、ふと思い浮かんだ事を口にすると、女官は声を詰まらせたようだ。
「なぜですか?」
「へぇー、居るんだそういう人? だあれ? やっぱり騎士さま?」
「居りません」
きっぱりとした口調とは裏腹に、目元が僅かに赤い。
「それとも文官系かしら。エマウの水色の瞳にはねえ――」
思案するように唇に人差し指を当てる。視界の端で何かが動いた気がした。
目を凝らすと、青錆色の髪が木陰に見える。
「そうね、あんな髪色だったらとっても似合うかも」
「何を仰ってるんですか!」
示した方向へ行こうとする、ミアリエルをエマウが制する。
「折角だから名前をお聞きしましょうよ。って……あの方……」
小首を傾げる姿は、無垢にも見える。
しかしその中身がだいぶ変わった思考をしているのを、彼女の身近に居る者達は知っている。
「……聖官じゃないわ。帯剣していたもの」
「今宵は護衛の方も多くこちらにお越しですからね」
「でも、それなら騎士さまの格好をしているのではなくて? とってもとってもとってもとっても怪しいわ」
この奥には、聖官達が蟄居している庫院がある筈だ。
いつだったか、兄に見せてもらったその場所の配置を思い出しながら、ミアリエルはいくつかの疑問符を思い浮かべる。
それから悪巧みを思いついたような表情を隠すように、唇をきゅっと引き結んだ。
「やっぱりお名前をお聞きしてこなくちゃ」
今にも駆け出しそうなミアリエルに、女官は、とんでもないと首を横に振る。
「戻って護衛騎士の方々に知らせましょう」
「だめよ! そんな大騒ぎをしちゃ。蜂は藪からつついて出すものよ。私は真相を知りたいの」
胡散臭い人間が出入りしているとなると、女子供の手に負える問題ではない。
しかし主の言は、なんとなく支離滅裂である。
続けて、耳打ちされるように告げられた言葉に、エマウは目を白黒させた。
「愛人かもしれないの」
――青い鳥を、白き聖者と黒き賢者が飼いならしているんですって。