扉の向こうの王子様~終電帰りの限界社畜OL、玄関のドアを開けたら異世界と繋がっていました
凛子がシェイルと顔を合わせたのは、あと少しで深夜を越えてしまう頃だった。
実に六日振りの事だ。
半分以上は想像なのだが、シェイルはこの王宮においてもかなり多忙な職についているのだろうと凛子は思う。
シェイルの兄弟であるらしいディエルは、自身の職について、教会に勤める神官みたいなものだと言っていたが、凛子と彼は殆ど毎日のように顔を合わせていたし、神官という職種はあまり忙しくないのかもしれない。
それに比べ、シェイルと隔離結界内で言葉を交わしたのはたった一度だけ。鍛錬所らしき場所で出会ったシェイルには、あまり良い顔をされなかったのを思い出す。冷静に自分の立場に置き換えて考えてみると、職場に何の連絡も無く知人が訪ねて来たら、やはりあまり良い顔をしない気がする。
あの懐かしい部屋に迎え入れられ、続きの間への扉に刻まれた見事な紋様を目にし、凛子はそっと胸を押さえた。私物が運び込まれ、ラストゥーリャとシェイルが幾つか言葉を交わしている。
遅れて入室したディエルが「ミリィから渡してくれと頼まれたものだよ」と書簡を凛子に差し出す。受け取ったそれを少しだけ考えて鞄の中にいれた。あの少女とは、結局二回しか顔を合わせなかった。
交換日記のように、エイゼル代筆のもと何度か手紙をやり取りしたけれども、どれも他愛ない話ばかりで、最後の手紙を送ったのは今日の午後の事だった。その返事が今届けられるという事は、彼女もまた何かを知っているのかもしれない。
とても遠い所にある母国に帰る、長い長い旅路に出る――と云う言葉に隠された齟齬に。
ディエルと親しくしているミアリエルとディエルの関係も、凛子はまたよく知らされていない。いつだったかディエルに尋ねた際、曖昧に濁された返事が返って来たため、そこも凛子が踏み込んで良い領域ではないのだろう。
改めてここに来てからの日々を振り返ってみると、自分は最初から最後まで異邦人のまま変わらなかった。この世界に紛れ込んでしまったとても小さな欠片。でも、それで良いのだ。ここに在るべきなのは彼らであって、自分ではない。そして自分が在るべき場所もまた此処では無い。
恐らくもう二度と会う事も無い人たち。見る事の無い色彩。風の音も、花の香りも。すべて。少しだけ寂しいな、と思う。けれど、記憶は永遠に色褪せる事無く、美しいのだ。きっと。
回廊と居室とを繋いでいる扉が閉ざされた。
だがしかし、向こう側には人の気配がある。
それに反比例するよう、室内を支配するのは重たい沈黙。
扉に背を預けながら、凛子はもう一つの扉に向き合い立つ男の横顔を見つめる。
高い鼻筋に影が落ち、表情が隠されてしまっている。
「シャール」
久方ぶりに音にするその名が、酷く懐かしく感じられた。
彫像のごとく固まっていた男は、凛子の声に大きく息を吐いた。知らずのうちに、呼吸を止めていたらしい。
「帰るか」
ぽつりと独語し、残りの言葉を飲み込んだ。
別れの時には、まだ少しだけ早い。
紋様を指でなぞり、ひとつ笑いを落とすと躊躇する事無く魔力を注ぎ込む。目に見えぬ力が螺旋を描き、弾けた。空間は音も無くあらゆるものから遮断され、孤立した。いっそあっけないほどに。