彼は魅惑のバレリーノ
目の前の男性は、少し困ったように頬をかいた。

「悪いけど…それはできないかな。」

そりゃそうだ。
見ず知らずの人間に、いきなりあんなお願いをしてしまったのだから。

――って、私、名乗ってすらいなかった。

「し、失礼しました!
私、こういう者です。」

慌てて名刺を差し出す。
彼は一瞬きょとんとしたあと、ちゃんと受け取ってくれた。

「えっと…如月さん?」

「はい! よろしくお願いします」

少し食い気味に返してしまった。
恥ずかしいけど、もう遅い。

「俺は戸神 柊(とがみ しゅう)です。
一応、バレエダンサーです」

そう言って、ふっと笑う。

その笑顔が、さっきまでの舞よりもずっと近くて、
胸の奥がじんわり熱くなる。


「す、すごいですね…」

思わず漏れた私のつぶやきに、戸神さんは軽く笑った。

「そんなことないですよ。」

その自然な言い方に、張りつめていた肩の力が少し抜ける。

今なら――そう思って、私はもう一度切り出した。

「あの……絵のモデル、少しでいいんです。お願いできますか?」

言った瞬間、胸の奥がざわついた。
期待と不安が入り混じって、息が浅くなる。

戸神さんは一瞬だけ目を伏せ、それから申し訳なさそうに首を振った。

「ごめんね。力にはなれないかな。」

短いけれど、はっきりとした拒絶だった。

「変なこと言って、すみません。」

「いいえ。」

それ以上、言葉は続かなかった。

私は軽く会釈して、その場を離れる。
夜の風が頬を撫で、少しだけ冷たかった。

家までの道を歩くたび、靴音だけが静かに響く。
さっきまで胸を満たしていた熱が、ゆっくりと冷えていくのを感じながら。
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