亡者逃走中 in 現世
「甘口と辛口、あと塩ダレも買っとくか」
冥府のスーパー……もとい、商店街で買い物を済ませた私は、ビニール袋を下げて閻魔庁へと戻ってきた。
中庭からは、すでに香ばしい炭の匂いと煙が立ち上っている。
どうやら本気で火を起こしたらしい。仕事は遅いくせに、こういう悪ふざけの準備だけは無駄に手際が良いのが我が職場の困ったところだ。
「……んま!」
「うめぇ!」
「このしいたけ、ちょーだい」
「焼きとうもろこしが欲しい人は、手を上げるんである」
じゅうう、と網の上で脂が弾ける心地いい音が響くたび、みんなのテンションがぐっと上がる。机の端っこでは、私が買ってきたちょっとお高めの焼肉のタレが大活躍していた。
さっきまで生贄にされかけていたはずの閻魔も、ちゃっかり縄を解かれてお肉を頬張っている。
そんな平和(?)な空気を、のんびりした声がぶち壊した。
「――あ、そうそう。誰か僕の代わりに、逃げ出した亡者を送り還してくれないかな?」
閻魔だ。
亡者を逃がした張本人が、お肉の匂いに紛れてとんでもないことを言い出した。
トングを持った獄卒も、肉を口に運ぼうとしていた十王も、全員が無言で視線を落とした。誰も閻魔と目を合わせようとしない。
沈黙が痛いほどに広がっていく。
「いやー、秦が良いと思うよ」
一番最初に、息をするように裏切ったのは変成くんだった。
「は!?何で私!変成くんの方が手際良いじゃん!」
「じゃあ、オレはパスー」
「お前やれよ」
「いや、お前がやるんである」
「おやっとさぁ……」
案の定、面倒な職場特有の擦り付け合いが始まった。
ただでさえポンコツなボスの尻拭いだ。休日を返上してまで行きたい奴なんて、この地獄に一人だっているわけがない。
閻魔は頭を搔きながら、まるで自分のせいではないかのように、のほほんと言った。
そもそも、閻魔のせいだからね?
「じゃあ、指名しまーす。秦広王と変成王ね」
「「は?」」
気の抜けた返事が見事にハモる。
……今、完全に聞き間違いじゃないよね?
ねぇ、誰か「冗談だよ」ってフォローして。
必死の抗議を込めて視線を送るが、周りの同僚たちは「巻き込まれなくて良かった……」と胸を撫で下ろしながら、そそくさと肉を焼き直している。
は、薄情者!網の上のお肉が全部焦げれば良いのに!!
そんなことを思いながら、自分の取り皿にお肉を移した。火が通り過ぎて固くなってしまった肉ほど悲しいものはない。
「だって、最近君達、仕事してないでしょ?」
「……チッ。バレてたか」
「変成くん、そこはもうちょっと粘ろうよ」
「ちなみに、亡者は人道に散らばったから、中学生として潜入してきて〜」
閻魔の言葉に、私と変成くんはまた固まった。
「……え、今なんて?」
「だから〜、人道にいる間は中学生として過ごしてね。制服も用意しといたから!」
そう言ってニッコニコの閻魔が、どこからともなく大きな紙袋を取り出した。
中には――学生服と、女子用のセーラー服。
「待って、それ、まさか……」
「もちろん秦広王はこっち!」
「嫌だよ!」
即答した。
何でセーラー服を着なきゃいけないの。罰ゲームにも程がある。
「えー、似合うと思うけどなぁ」
変成くんがニヤニヤしながら男子の制服を広げる。
「変成くんは着るんだね!?」
「だって人道の学校なんか楽しみじゃん」
「それは確かにそうだけど……閻魔の尻拭いだからね?」
閻魔はギャーギャー揉める私達を見て、ここぞとばかりに手を合わせて拝んできた。
「お願い!全部の亡者を送り返してくれたらお給料アップするから!ね?」
―――その後。
お給料アップを条件に、私と変成くんが渋々担当することになった。
***
「何で私達があの馬鹿上司の尻拭いしないといけないんだろ......」
人気のない寂れた廃工場の、冷たい鉄骨の上に腰掛けながら、私はぶつぶつと呪詛のように愚痴を吐き出した。
「もう地獄道と化しても良いんじゃない?」
「ダメだよ!?」
すかさずツッコミを入れる。
変成くんは隣で足をぶらぶらさせながら、夜景を眺めている。まるで遠足の休憩中みたいな、のんきな顔だ。まったく緊張感というものがない。
これから亡者を捕まえようっていうのに、何でこの人はこんなに楽しそうなんだろう。冥府にいる時はあんなに気怠げだったくせに、人道に来た途端にテンションが上がっているのが理解不能だ。
「……で、亡者の反応は?」
「んー、まだ。多分、近くにいるはずだけど……」
「何?双眼鏡持って、まだ見つかんないの?」
「うん」
軽く悪態をついてくる変成くんの言葉を適当にスルーし、持っていた双眼鏡をカバンに押し込んだ。
(夜ならコソコソ動き回ると思ったんだけどね〜……完全に空振り)
かれこれ三十分くらいはこうしているよ。
……もう、やめやめ。今日は疲れた。
「で、どこ泊まる?」
「……」
閻魔から『あ、仕事が終わるまでは帰って来なくて良いからね〜』と、言われてたんだった。
(え、最悪)
***
「……で、えーっと、最低でも2LDKの部屋が借りたいと」
「「はい」」
手元の書類をめくりながら、数枚の見取り図を確認しているのは、困惑を隠しきれない不動産屋の男性だ。
はい。真夜中の過酷な捜索を早々に諦め、翌朝一番で不動産屋さんに駆け込んでおります。
亡者探しは、現在進行形で完全に放棄中だ。まずは衣食住の『住』を確保しなければ、戦う前に野垂れ死んでしまう。
「あ、あの……ご両親の同伴、あるいは保証人などは……」
「あー、親は今、海外に単身赴任中です。手続き用の書類とハンコならここにあります」
閻魔が偽造したであろう完璧な人間用の書類をドン、と机に出す。
「こことかどうでしょうか?」
男性が申し訳なさそうに差し出してきたのは、郊外にひっそりと佇む、築二十年の年季の入ったアパートの間取り図だった。
「駅から徒歩十五分、スーパーまで五分……」
「ま、俺は何でも良いけど〜……」
ふわぁ……と、緊張感のない大きな欠伸をする変成くん。
しかも、手元にある見取り図をなぜか上下逆さまに持って眺めていた。
(それじゃ上下逆だから、部屋の広さも何も分からないよ……?)
不動産屋さんの男性が、営業スマイルを崩さぬまま説明を続ける。
「こちらのお部屋は、日当たりも良くて、静かな環境が特徴ですね」
「へー、良い物件ですね!」
「でしょ〜?」
「……で、これ事故物件なの?」
変成くんのひと言で、その場が凍りついた。
「条件が良いのに、この値段……明らかに事故物件でしょ」
「で、で、ででで出ませんよぉぉ?」
一瞬で営業トーンが裏返り、挙動不審になる不動産屋さん。
うん、絶対なんか出るな、これ。確信した。
「まぁでも。そういうの、逆にお得じゃない?」
「え?」
「だってほら、入居者少ないなら、家賃下げてもらえるかもしれないし」
「いやいやいや、値引きキャンペーンとかいらないから!でも、できたら家賃半値が良い」
人道のお金なんて、地獄の貯金からは大して換金できなかったのだ。すでに財布の中身が寂しい私達にとっては、安さは正義である。
そんな私達の、お化け屋敷の査定でもするかのような不謹慎なやり取りを聞いて、不動産屋さんが怯えながら小声で呟いた。
「……実は、以前ちょっと音の報告が……」
不動産屋の言葉を最後まで聞かず、変成くんは話しだした。
「まぁ、別に何でも良いや。ここで良いでしょ」
「確かに」
何でも良い、何でも良いから早く横になりたい。
「じゃ、契約書ここにサインお願いします」
不動産屋さんが差し出したボールペンを受け取り、ため息をつきながら名前を書いた。
事故物件と知ってなお即決する中学生二人組に、不動産屋さんは「本当に大丈夫なんですか……?」と何度も念を押し、最後は逃げるように鍵を渡してくれた。
「ほら秦、鍵。早く開けてよ」
「はいはい……」
ガチャリと音を立ててドアを開けると、目の前に広がっていたのは、いかにも昭和の香りが漂うレトロな2LDK。少し湿気を含んだ空気が鼻をくすぐる。
変成くんは靴を脱ぎ散らかすと、真っ先にリビングのへ向かい、そのままソファに派手にダイブした。
「備え付け家具、便利だね」
「ちょっと変成くん、靴揃えてよ! …っていうか、やっぱりここ、なんか嫌な気配しない?」
部屋の隅、日光が届かない押し入れのあたりから、うっすらと淀んだ空気が漂っている。
ギギ……と、誰も触れていない押し入れの引き戸が、数センチだけゆっくりと開いた。
「……出た」
「あ、本当だ。なんかいる」
押し入れの隙間から、恨めしそうな顔をした髪の長い女の霊がぬっと顔を覗かせ、低く響く声で呻き始めた。
『……出…て……い…け……ここ…は……私…の……』
「あー、あのさ」
変成くんがめんどくさそうに体を起こし、あぐらをかきながら青ざめた霊をじっと見つめた。
「僕たち、昨日の夜からずっと外にいて超疲れてるのね。地獄の業務命令で逃げた亡者探してて、精神的にもギリギリなわけ」
『え?じ、地獄……?』
「で、君さ。死んだあと、現世滞在の手続きした?」
『えっ、あ、いや……手続きはまだ……』
「じゃあ無許可の不法滞在じゃん。まぁ、自分が死んだことに気づいてなかったみたいだから今回は大目に見るけど、満足したら秦に頼んで審判してもらってね」
『え、あ……はい……。じゃあ、あの、角の引き出しの奥に落ちてるお気に入りのリップが見つかったら、成仏を検討します……』
「それくらいなら探してあげるよ。秦、よろしく〜」
「なんで私なの!? 変成くんが行きなよ!」
文句を言いながらも、押し入れの奥で肩を小さくしている幽霊にどこか同情してしまい、私は恐る恐る引き出しの隙間を覗き込んだ。
「……あ、あった。これ?」
『それです!友達に貰ったものなんです……!』
小さなリップクリームを手渡すと、女の霊はパァッと顔を輝かせた。さっきまでの恨めし気な雰囲気はどこへやら、一気に普通の女子高生みたいなリアクションになっている。
『ありがとうございます……!これで未練が消えました。審判、よろしくお願いします……』
「あ、うん。まあ、冥府に来たら秦広庁へどうぞ」
霊は満足そうに微笑むと、スーッと光の粒子になって消えていった。
事故物件の事故要素、わずか五分で解決した。
冥府のスーパー……もとい、商店街で買い物を済ませた私は、ビニール袋を下げて閻魔庁へと戻ってきた。
中庭からは、すでに香ばしい炭の匂いと煙が立ち上っている。
どうやら本気で火を起こしたらしい。仕事は遅いくせに、こういう悪ふざけの準備だけは無駄に手際が良いのが我が職場の困ったところだ。
「……んま!」
「うめぇ!」
「このしいたけ、ちょーだい」
「焼きとうもろこしが欲しい人は、手を上げるんである」
じゅうう、と網の上で脂が弾ける心地いい音が響くたび、みんなのテンションがぐっと上がる。机の端っこでは、私が買ってきたちょっとお高めの焼肉のタレが大活躍していた。
さっきまで生贄にされかけていたはずの閻魔も、ちゃっかり縄を解かれてお肉を頬張っている。
そんな平和(?)な空気を、のんびりした声がぶち壊した。
「――あ、そうそう。誰か僕の代わりに、逃げ出した亡者を送り還してくれないかな?」
閻魔だ。
亡者を逃がした張本人が、お肉の匂いに紛れてとんでもないことを言い出した。
トングを持った獄卒も、肉を口に運ぼうとしていた十王も、全員が無言で視線を落とした。誰も閻魔と目を合わせようとしない。
沈黙が痛いほどに広がっていく。
「いやー、秦が良いと思うよ」
一番最初に、息をするように裏切ったのは変成くんだった。
「は!?何で私!変成くんの方が手際良いじゃん!」
「じゃあ、オレはパスー」
「お前やれよ」
「いや、お前がやるんである」
「おやっとさぁ……」
案の定、面倒な職場特有の擦り付け合いが始まった。
ただでさえポンコツなボスの尻拭いだ。休日を返上してまで行きたい奴なんて、この地獄に一人だっているわけがない。
閻魔は頭を搔きながら、まるで自分のせいではないかのように、のほほんと言った。
そもそも、閻魔のせいだからね?
「じゃあ、指名しまーす。秦広王と変成王ね」
「「は?」」
気の抜けた返事が見事にハモる。
……今、完全に聞き間違いじゃないよね?
ねぇ、誰か「冗談だよ」ってフォローして。
必死の抗議を込めて視線を送るが、周りの同僚たちは「巻き込まれなくて良かった……」と胸を撫で下ろしながら、そそくさと肉を焼き直している。
は、薄情者!網の上のお肉が全部焦げれば良いのに!!
そんなことを思いながら、自分の取り皿にお肉を移した。火が通り過ぎて固くなってしまった肉ほど悲しいものはない。
「だって、最近君達、仕事してないでしょ?」
「……チッ。バレてたか」
「変成くん、そこはもうちょっと粘ろうよ」
「ちなみに、亡者は人道に散らばったから、中学生として潜入してきて〜」
閻魔の言葉に、私と変成くんはまた固まった。
「……え、今なんて?」
「だから〜、人道にいる間は中学生として過ごしてね。制服も用意しといたから!」
そう言ってニッコニコの閻魔が、どこからともなく大きな紙袋を取り出した。
中には――学生服と、女子用のセーラー服。
「待って、それ、まさか……」
「もちろん秦広王はこっち!」
「嫌だよ!」
即答した。
何でセーラー服を着なきゃいけないの。罰ゲームにも程がある。
「えー、似合うと思うけどなぁ」
変成くんがニヤニヤしながら男子の制服を広げる。
「変成くんは着るんだね!?」
「だって人道の学校なんか楽しみじゃん」
「それは確かにそうだけど……閻魔の尻拭いだからね?」
閻魔はギャーギャー揉める私達を見て、ここぞとばかりに手を合わせて拝んできた。
「お願い!全部の亡者を送り返してくれたらお給料アップするから!ね?」
―――その後。
お給料アップを条件に、私と変成くんが渋々担当することになった。
***
「何で私達があの馬鹿上司の尻拭いしないといけないんだろ......」
人気のない寂れた廃工場の、冷たい鉄骨の上に腰掛けながら、私はぶつぶつと呪詛のように愚痴を吐き出した。
「もう地獄道と化しても良いんじゃない?」
「ダメだよ!?」
すかさずツッコミを入れる。
変成くんは隣で足をぶらぶらさせながら、夜景を眺めている。まるで遠足の休憩中みたいな、のんきな顔だ。まったく緊張感というものがない。
これから亡者を捕まえようっていうのに、何でこの人はこんなに楽しそうなんだろう。冥府にいる時はあんなに気怠げだったくせに、人道に来た途端にテンションが上がっているのが理解不能だ。
「……で、亡者の反応は?」
「んー、まだ。多分、近くにいるはずだけど……」
「何?双眼鏡持って、まだ見つかんないの?」
「うん」
軽く悪態をついてくる変成くんの言葉を適当にスルーし、持っていた双眼鏡をカバンに押し込んだ。
(夜ならコソコソ動き回ると思ったんだけどね〜……完全に空振り)
かれこれ三十分くらいはこうしているよ。
……もう、やめやめ。今日は疲れた。
「で、どこ泊まる?」
「……」
閻魔から『あ、仕事が終わるまでは帰って来なくて良いからね〜』と、言われてたんだった。
(え、最悪)
***
「……で、えーっと、最低でも2LDKの部屋が借りたいと」
「「はい」」
手元の書類をめくりながら、数枚の見取り図を確認しているのは、困惑を隠しきれない不動産屋の男性だ。
はい。真夜中の過酷な捜索を早々に諦め、翌朝一番で不動産屋さんに駆け込んでおります。
亡者探しは、現在進行形で完全に放棄中だ。まずは衣食住の『住』を確保しなければ、戦う前に野垂れ死んでしまう。
「あ、あの……ご両親の同伴、あるいは保証人などは……」
「あー、親は今、海外に単身赴任中です。手続き用の書類とハンコならここにあります」
閻魔が偽造したであろう完璧な人間用の書類をドン、と机に出す。
「こことかどうでしょうか?」
男性が申し訳なさそうに差し出してきたのは、郊外にひっそりと佇む、築二十年の年季の入ったアパートの間取り図だった。
「駅から徒歩十五分、スーパーまで五分……」
「ま、俺は何でも良いけど〜……」
ふわぁ……と、緊張感のない大きな欠伸をする変成くん。
しかも、手元にある見取り図をなぜか上下逆さまに持って眺めていた。
(それじゃ上下逆だから、部屋の広さも何も分からないよ……?)
不動産屋さんの男性が、営業スマイルを崩さぬまま説明を続ける。
「こちらのお部屋は、日当たりも良くて、静かな環境が特徴ですね」
「へー、良い物件ですね!」
「でしょ〜?」
「……で、これ事故物件なの?」
変成くんのひと言で、その場が凍りついた。
「条件が良いのに、この値段……明らかに事故物件でしょ」
「で、で、ででで出ませんよぉぉ?」
一瞬で営業トーンが裏返り、挙動不審になる不動産屋さん。
うん、絶対なんか出るな、これ。確信した。
「まぁでも。そういうの、逆にお得じゃない?」
「え?」
「だってほら、入居者少ないなら、家賃下げてもらえるかもしれないし」
「いやいやいや、値引きキャンペーンとかいらないから!でも、できたら家賃半値が良い」
人道のお金なんて、地獄の貯金からは大して換金できなかったのだ。すでに財布の中身が寂しい私達にとっては、安さは正義である。
そんな私達の、お化け屋敷の査定でもするかのような不謹慎なやり取りを聞いて、不動産屋さんが怯えながら小声で呟いた。
「……実は、以前ちょっと音の報告が……」
不動産屋の言葉を最後まで聞かず、変成くんは話しだした。
「まぁ、別に何でも良いや。ここで良いでしょ」
「確かに」
何でも良い、何でも良いから早く横になりたい。
「じゃ、契約書ここにサインお願いします」
不動産屋さんが差し出したボールペンを受け取り、ため息をつきながら名前を書いた。
事故物件と知ってなお即決する中学生二人組に、不動産屋さんは「本当に大丈夫なんですか……?」と何度も念を押し、最後は逃げるように鍵を渡してくれた。
「ほら秦、鍵。早く開けてよ」
「はいはい……」
ガチャリと音を立ててドアを開けると、目の前に広がっていたのは、いかにも昭和の香りが漂うレトロな2LDK。少し湿気を含んだ空気が鼻をくすぐる。
変成くんは靴を脱ぎ散らかすと、真っ先にリビングのへ向かい、そのままソファに派手にダイブした。
「備え付け家具、便利だね」
「ちょっと変成くん、靴揃えてよ! …っていうか、やっぱりここ、なんか嫌な気配しない?」
部屋の隅、日光が届かない押し入れのあたりから、うっすらと淀んだ空気が漂っている。
ギギ……と、誰も触れていない押し入れの引き戸が、数センチだけゆっくりと開いた。
「……出た」
「あ、本当だ。なんかいる」
押し入れの隙間から、恨めしそうな顔をした髪の長い女の霊がぬっと顔を覗かせ、低く響く声で呻き始めた。
『……出…て……い…け……ここ…は……私…の……』
「あー、あのさ」
変成くんがめんどくさそうに体を起こし、あぐらをかきながら青ざめた霊をじっと見つめた。
「僕たち、昨日の夜からずっと外にいて超疲れてるのね。地獄の業務命令で逃げた亡者探してて、精神的にもギリギリなわけ」
『え?じ、地獄……?』
「で、君さ。死んだあと、現世滞在の手続きした?」
『えっ、あ、いや……手続きはまだ……』
「じゃあ無許可の不法滞在じゃん。まぁ、自分が死んだことに気づいてなかったみたいだから今回は大目に見るけど、満足したら秦に頼んで審判してもらってね」
『え、あ……はい……。じゃあ、あの、角の引き出しの奥に落ちてるお気に入りのリップが見つかったら、成仏を検討します……』
「それくらいなら探してあげるよ。秦、よろしく〜」
「なんで私なの!? 変成くんが行きなよ!」
文句を言いながらも、押し入れの奥で肩を小さくしている幽霊にどこか同情してしまい、私は恐る恐る引き出しの隙間を覗き込んだ。
「……あ、あった。これ?」
『それです!友達に貰ったものなんです……!』
小さなリップクリームを手渡すと、女の霊はパァッと顔を輝かせた。さっきまでの恨めし気な雰囲気はどこへやら、一気に普通の女子高生みたいなリアクションになっている。
『ありがとうございます……!これで未練が消えました。審判、よろしくお願いします……』
「あ、うん。まあ、冥府に来たら秦広庁へどうぞ」
霊は満足そうに微笑むと、スーッと光の粒子になって消えていった。
事故物件の事故要素、わずか五分で解決した。