愛に目覚めた冷徹孤高の心臓外科医は、政略結婚妻を離さない ――旦那様、この結婚は契約ですよね?
 するとすぐ、彼女の名前を呼ぶ声がする。

「椿芽!」

 駆け寄ってきたのは、小玉先生だ。

輝也(てるや)さん……」

 椿芽さんは沙久良さんの視線に居心地悪そうにしながらも、小さな声で彼を呼ぶ。小玉先生はにこにこしたまま、彼女に尋ねた。

「大丈夫? 揉めていたみたいだけれど」

「え、ええ。私の勘違いでした」

 すると、小玉先生はくすりと笑った。

「もう、椿芽はおっちょこちょいなんだから」

 ふたりのやりとりのおかげで、場の空気が一気に和む。私もほっこりしていると、不意に耳元で瑞樹さんに名前を呼ばれた。

「万智」

 それで、体が思いっきり跳ねてしまった。まさか、瑞樹さんも来ていたとは。
 緊張しながら振り返ると、瑞樹さんが私の耳元で続けた。

「全部、陰から見ていた。よくやったな、さすがだ」

 それで、胸の奥から嬉しさがこみ上げてくる。だけど、私がこの事態でも怯まずに堂々といられたのは、彼がくれたイヤリングのおかげだ。
 このイヤリングがあったから、私は落ち着いていられたのだ。

「こちらこそ、ありがとうございます。残りのお仕事、頑張ってください」

「ああ、万智もな」

 瑞樹さんはそう言いながら、柔らかく微笑む。その姿に、胸がとくとくと優しく鳴る。

 彼に心配されるようでは〝自立できていない妻〟も同然だ。だから、もっと頑張らなくては。そう自分に言い聞かせても、私はこみ上げる喜びを抑えきれない。
 去って行く瑞樹さんを視線で追いかけ、椿芽さんと席を代わる。ここからは、なにがあっても大丈夫な気がした。

 そんな自分の変化に気を取られ、私は気づかなかった。沙久良さんの顔が、醜く歪んでいたことに。

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