愛に目覚めた冷徹孤高の心臓外科医は、政略結婚妻を離さない ――旦那様、この結婚は契約ですよね?
 その日の夜もウェルネススペースでお香を炊いていると、いつものように瑞樹さんが入ってきた。
 彼の帰宅時に一度お礼は伝えたけれど、私は改めて彼にお礼を伝えようと、彼に体ごと向き直る。

「今日はありがとうございました。わざわざ、様子を見に来てくださったんですよね」

 瑞樹さんが来てくれたのは想定外だったが、彼に褒められて嬉しかったのは事実だ。あの後私が堂々と会計をしていられたのは、瑞樹さんが声をかけてくれたおかげだと思う。

 瑞樹さんはソファに腰かけていたが、視線はこちらを向いている。その穏やかな顔に面映ゆくなってしまい、私は視線を逸らした。持て余した手で、耳元のイヤリングに触れる。

「小玉先生に誘われたんだ。彼は愛妻家だから」

 瑞樹さんは淡々とそう言った。昼間に見た、ふたりの様子を頭に思い浮かべる。

「小玉先生の愛妻家ぶりは、見ていたらわかります。本当に、椿芽さんのことを大好きなんでしょうね」

 もしかしたら、小玉先生は椿芽さんの愚痴を言うことがあるかもしれないし、椿芽さんが言うこともあるかもしれない。だけどほんわかとしたふたりのやりとりを見たら、羨ましいと思った。

 ……あれ、どうしてだろう。
 愛なんて、この世界にあるはずがない。それなのに、あのふたりを羨ましいと思うなんて。

 ――違う、あれは愛なんかではない。それに、他人のそれに憧れている場合ではない。
 私は感情を振り回されてはいけない。だって、私の務めは〝妻〟としての仕事をまっとうすることなのだから。

「それでも、瑞樹さんが来てくださって嬉しかったです。このイヤリングのおかげで、妻の務めを果たせました」

 私がそう口にしたのは、気持ちに線を引くためだ。

 彼が私と結婚したのは、彼を次期院長にするため。それ以上でも、それ以下でもない。愛なんて信じてはいけない。この世に存在しない幻想を胸に描いたって、虚しさが残るだけだ。
 自分にそう言い聞かせていると、瑞樹さんがつぶやく。

「〝妻の務め〟か……」

 瑞樹さんはふっとため息をこぼすと、なぜか立ち上がる。そのままこちらに戻ってくると、私に手を伸ばした。

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