愛に目覚めた冷徹孤高の心臓外科医は、政略結婚妻を離さない ――旦那様、この結婚は契約ですよね?
 万智に口づけようと、逸る気持ちで顔を近づける。その時、やっと万智の体がこわばっていることに気がついた。彼女はぎゅっと目を瞑り、俺の顔を見ないようにする。

 ぞわっとなにか嫌な感覚が背を襲う。それで、やっと理性が戻ってきた。

 俺は、万智を怖がらせてまで、こういうことを望んだわけではない。
 万智を壊したくはない。母と同じにしたいわけがない。だけど、これでは同じじゃないか。

 はっと万智から手を離し、体を起こした。

『悪い、今じゃないな』

 俺はそう言って、書斎に戻った。


 ――昨日はどう考えても、急ぎすぎた。万智の気持ちを置いてけぼりにしてしまっては、万智の苦痛になってしまうかもしれない。

 彼女を大切にしたい。だから、ゆっくりと時間をかけて、ちょっとずつ想いを伝えて、万智と想いを同じくしてからやっと、万智の全部を愛するべきだ。そのくらい、俺は待てる。

 反省をしていると、理事長室の扉が開いた。この病院の理事長――万智の父親が入ってくる。俺は立ち上がり、頭を下げた。

「お忙しいところ、恐れ入ります」

「いや、結構。君が言いたいことはわかっている。あの件だろう」

 理事長は静かに言いながら、院長室の方向に視線を向けた。

 さすが、察しがいい。俺が理事長室に来た理由は、院長一家に関係している。
 次期院長の座を狙うもうひとりの男、副院長を務める鴎川翼が、元大物政治家である大峠(おおとうげ)氏の手術を執刀すると、今朝急に発表したからだ。

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