愛に目覚めた冷徹孤高の心臓外科医は、政略結婚妻を離さない ――旦那様、この結婚は契約ですよね?
 いつもと同じように瑞樹さんと食卓を囲む。食事を終えると、瑞樹さんは今日も皿洗いを申し出てくれた。
 忙しいのに申し訳ないと断ろうとしたが、瑞樹さんはいつもしているからと引いてくれない。仕方なく彼に皿洗いを頼み、その間にお風呂の準備と、明日のシャツのアイロンがけをすることにした。

 クローゼットから彼のワイシャツを取り出し、リビングでアイロンをかけてゆく。
 丁寧に、やるべきことを、きちんとこなす。それが妻の仕事だ。なのに、これでいいのだろうかと不安になる。私はかつて母に言われたことを、脳内で繰り返した。

『結婚というのは、互いの利のために生きること。相手に尽くすのは、それが自分に与えられた仕事だから』

 その通りに動かなければならないのに、私は今、妻という仕事をまっとうできていると、胸を張って言えない。
 いいえ、せめて目の前の仕事だけでも、きっちりと。そう自分に言い聞かせ、アイロンをシャツに滑らせる。後は、前身ごろだけだ。

「熱っ!」

 不意に指先に激痛が走った。すると、後方で聞こえていた水の音が突然止まる。

「万智!」

 瑞樹さんが、ばたばたとこちらにやってくる。

 私は慌てて、アイロンに触れてしまった指先を背中に隠した。こんな家事すらまともにできないと思われたら、瑞樹さんに失望されてしまう。
 嫌われたくない。彼の隣に立てる、立派な妻でいたい。

「指、見せてみろ」

「なんでもないです」

「いいから」

 首を横に振るも、彼に隠した左手を掴まれてしまう。中指の先が、他の指よりも赤くなっていた。
 ちょっとした火傷だ。だが、瑞樹さんはそれを見て顔を歪める。

「万智、もういい。これは俺が自分でやる。手当だけさせてくれ」

「大丈夫です、大したことないですから」

「万智を傷つけたくないんだ。わかってくれ」

 瑞樹さんの強い口調に、ぐっと唾をのみ込んだ。胸がきゅうっと苦しくなる。

 ああ、私は本当に役立たずだ。こんなことも、やらせてもらえないなんて。

 だが、それではダメだと思う。
 私は彼が薬を持って戻ってくる前に、急いでシャツにアイロンをかけ終え、さっさとリビングから立ち去る。

 皺のない真っ白のシャツは、自分の心のように虚しいと思った。

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