愛に目覚めた冷徹孤高の心臓外科医は、政略結婚妻を離さない ――旦那様、この結婚は契約ですよね?
 体が揺れる感覚で、意識が浮上した。重たいまぶたを開けると、スモーク窓越しの空が濁った茜色に染まっているのが見えた。

 流れてゆく雲の速さで、自分が車の後部座席に転がされているのだと悟る。
 手足はきつく拘束されていて、びくともしない。もがけばもがくほど、手首に食い込む感触が痛みを増す。私はそれを解くのを諦め、とにかく冷静にならなければと心を落ち着けた。

 誰が、なんのために?

 真っ先に浮かぶのは、沙久良さんの顔だ。だが、先日の手術では、彼女の夫である副院長が優位に立ったはず。それなのに、どうしてこんな乱暴な真似を?

 ――いや、そんなことよりも。

 刻一刻と、パーティーの開始時間が迫っている。
 妻の同伴が必須の席で私がいないとなれば、瑞樹さんの立場はさらに悪くなってしまう。

 これ以上、瑞樹さんの足を引っ張りたくはない。だが焦りとは裏腹に、車はどこかへと走り続ける。

 やがて、車が止まった。スモーク窓の向こうにグレーの三角屋根が見えたが、それだけではここがどこかわからない。

 運転席と助手席に乗っていたのは、大柄の男性ふたり組だった。
 黒ずくめの服にサングラスをかけたふたりは、私を車から引きずり下ろすとまるで荷物のように肩に担ぎあげる。

 抵抗するも、男性ふたりの力にはまったく及ばない。
 私はすぐに意味はないと悟り、脱力して辺りを見回した。

 美しく手入れされた庭が目に入ったが、ここがどこかわかるような目印を探している間に、男たちは建物の中へと入ってしまう。

 すると、外の潮の香りに交じって、花の香りがした。
 心臓がぞわっと震えたのは、それがあの蠱惑的な香り――イランイランのものだったからだ。
 ここはきっと、鴎川の別荘かなにかなのだろう。

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