愛に目覚めた冷徹孤高の心臓外科医は、政略結婚妻を離さない ――旦那様、この結婚は契約ですよね?
 彼を思うと、胸がきゅっと苦しくなった。惑わされ、翻弄され、気持ちを操られているような感覚に陥った。
 ――こんなの、まるで私がこの世界に存在するはずがないと思っていた気持ちみたいだ。

 いや、そんなはずはない。
 そう思おうとしたけれど、同じことを何度も繰り返し思ってきたとも思い出す。

 愛なんて、一過性の熱に浮かされただけの幻想だ。恋なんて、人の理性を狂わせるだけの不確かなもの。だから私は、淡々と〝妻の務め〟をこなしてきた。

 だけど今、瑞樹さんが触れた手のひらの温度を思い出すだけで、胸が痛いほどに締めつけられてしまう。

〝仕事〟だと割り切っていたはずだったのに、どうして彼を思い出すだけでこんな気持ちになるのだろうか。
 それは……もう、認めざるを得ない。

 きっと私は、ずっと〝あるはずがない〟と思っていた感情に、ずいぶんと前からどっぷりと浸かってしまっていたのだ。

「瑞樹さん……」

 暗がりの中でひとりつぶやく。

 どうか、これ以上彼の立場が悪くなりませんように。私が今、彼のためにできるのは、不甲斐ないがそう祈ることだけだ。

 好きだから。恋しいから。
 彼が創立記念パーティーを、どうにか乗り越えてくれと祈る。

 その時だった。

 突如として、窓の向こうから鋭い二本の光が差し込み、視界を真っ白に染め上げた。
 鼓膜を震わせるのは、砂利をかむタイヤの音だ。それが止まるやいなや、勢いよくドアが閉まる音がした。

 脈が乱れ、耳元で激しく打ちつける。
 沙久良さんの手先だろうか。呼吸が震え、生きた心地がしない。

 ――バンッ!

 玄関の扉が勢いよく開く音が、静まり返った別荘に響く。

「おい、鍵をかけていなかったのか!」

「知らねえよ、兄貴!」

 虚を突かれた男たちの、上ずった怒鳴り声。それを上書きしたのは、氷のように冷たく、地を這うような低い声だった。

「万智を攫ったのは、お前たちか」

< 140 / 173 >

この作品をシェア

pagetop