愛に目覚めた冷徹孤高の心臓外科医は、政略結婚妻を離さない ――旦那様、この結婚は契約ですよね?
 彼女の手には、望田製薬の薬とコップが握られていた。後でわかったことだが、母は心臓の発作予防の薬を飲むためにこの場所にやってきていた。母は心の病だけでなく、心筋症を患っていたのだ。

 俺はすぐさま一一九番通報をした。母は救急車で運ばれたが、そのまま帰らぬ人となった。

 母が心筋症を抱えていると知ったのは、搬送先の病院でのカルテからだった。発作は突然起こるらしいが、母は俺たち息子にそれを隠しており、それがストレスとなり余計に心がおかしくなってしまったらしい。
 担当医は入院手術を勧めたが、母は家族のために入院はしないと頑なだった。母は心を病んでもなお、父に尽くし、父の会社のために生きようとしていたのだ。

 母は入院する代わりに、望田製薬の薬を投薬することで命を繋いでいた。相当無理をしていたようだ。

 母の飲もうとしていた薬は、発作を予防するのには世界一優秀で、その功績を世界中から讃えられている。だが、止まってしまった心臓を動かすことはできない。母は、父のキャリアに傷をつけまいと、自らの心臓の悲鳴を押し殺していたのだ。

 あまりにも悲惨な事実を突きつけられ、心に靄がかかった。このまま、俺は薬学の道に進んでいいのだろうか。

 迷いが消えぬ中、俺は母の葬儀の最中に、父のある言葉を聞いてしまった。

『妻の管理不足だ。会社のイメージに障るな』

 心のない、吐き捨てるような言葉。この瞬間、迷いの糸がぷつりと切れた。

 何万人に感謝されようと、父の薬では目の前のひとりを救うことができない。そして救えなかったひとりを、まるで使い捨ての道具のように、会社の不利益だと切り捨てようとする。そんな父の口ぶりに、ひどい嫌悪感を覚えたのだ。

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