愛に目覚めた冷徹孤高の心臓外科医は、政略結婚妻を離さない ――旦那様、この結婚は契約ですよね?
 それから二週間ほどで雨の季節は過ぎ去り、今はもう朝から蝉時雨が聞こえる。

 病院の花材を替えたことで沙久良さんからなにか嫌がらせを受けるかと危惧していたが、あの日からまったくない。
 椿芽さんとは同じレジデンス内にいるからかたまに会うこともあるけれど、こちらが会釈すると返してくれる。

 身構えていただけになんだか拍子抜けしてしまったが、なにもないならそれが一番いい。

 今日、私は朝から出かけ、専門店でオーデコロンを調香してきた。というのも、瑞樹さんが『好きなんだ』と伝えてくれたあの香りを出張にも持っていけたら、彼がいつも通りのパフォーマンスを発揮できるのではないかと考えたのだ。

 少しでも、瑞樹さんの力になれたら。少しでも、リラックスしてもらえたら。そんな気持ちで、カモミールとベルガモットを軸に調香してもらう。
 納得のいく香りになり、私は満足して店を出た。

 今はもう昼前。遅くなってしまったが、この後病院のドウダンツツジの様子を見に行かなくてはならない。
 ドウダンツツジは切り花にしても、一か月ほど楽しめる。だけどそれには、毎日のメンテナンスを欠かせないのだ。

 一度自宅に戻って、準備をしてから再び家を出よう。そう思いながらレジデンスに戻る。

 だがそこで、私は思わず足を止めた。ラウンジスペースのソファに腰を下ろしていた沙久良さんと、目が合ってしまったのだ。隣には、今日も椿芽さんがいる。

 沙久良さんは私が目に入るやいなや、わざとらしく大きなため息をこぼした。

「やっと帰ってきた。万智さん、お花のお世話も放棄して、いったいどこへ出かけていらしたの?」

 沙久良さんは言いながら、こちらへやってくる。その手には、彼女のものと思われるスマホが握られていた。

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