愛に目覚めた冷徹孤高の心臓外科医は、政略結婚妻を離さない ――旦那様、この結婚は契約ですよね?
 鴎川邸の前には、一台の白いクーペが止まっていた。瑞樹さんはその助手席に私を押し込み、自分は運転席に回る。

「あの、これ……」

「俺の車だ」

 瑞樹さんの言葉に、体からわずかに力が抜ける。ふう、と息をつくと、カモミールとベルガモットの香りが鼻をかすめた。

「シートベルトを締めてくれ」

 瑞樹さんの言葉に、慌ててシートベルトを締める。クーペは音もなく、ゆっくりと発進した。

「ごめんなさい、ご迷惑をおかけしました」

 暮れなずむ街を走るクーペの中、私はそっと彼に謝った。

 瑞樹さんはきっとあの自宅の惨状を見て、駆けつけてくれたのだろう。余計な手間をかけさせてしまった。

 なんて至らない妻なのだろう。ついため息がこぼれそうになったが、その時、瑞樹さんが口を開いた。

「いや、迷惑なんかじゃない。帰宅したらあの状態で驚いたが、万智の居場所がすぐにわかってよかった。あの鍵のおかげだ」

「鍵……」

 私は膝にのせていた、小さな鞄にそっと触れた。中に、家の鍵が入っている。

 この鍵にはセキュリティ機能の一環で、GPS機能がついている。瑞樹さんも、それを共有していた。

 彼はそれ以上なにも言わない。だけど、不思議と気まずさはない。以前は彼とふたりきりだと緊張してしまうことが多かったのに、今はなぜか心地よい。

 きっと、彼の運転がうまいからだろう。どこからか香るやすらぎの花の匂いが、自宅に着くまでの間、私をそっと落ち着かせてくれていた。

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