愛に目覚めた冷徹孤高の心臓外科医は、政略結婚妻を離さない ――旦那様、この結婚は契約ですよね?
 俺だって、そう思っていた。なのに今、俺はなぜか早く万智に会いたいと思っている。

『万智は、俺にはもったいないくらいだ』

 言葉にして、やっと気づいた。彼女は俺にはもったいないくらいの、できた妻だ。だから、こんな気持ちになるのだ。

 だが旧友は、俺の発言に目を丸くする。それから、ふっと表情を緩めた。

『なんだよ、腹いっぱいになっちまうじゃないか。早く帰ってやれよ、新婚さん』

 彼の不可解な行動の意味はわからないが、俺は思った。
 予定時刻よりは早いが、自宅なら帰ってもいいだろう。もし有明会の会合とぶつかってしまったら、挨拶をすればいい。

『ああ、そうさせてもらう』

 そう告げ、午後の聴講をキャンセルして早々に東京へと戻った。


 新幹線に揺られながら、考えるのは万智のことだ。俺は手首に吹きかけた香りを嗅ぐたびに、自分の口元が緩んでしまうことに気づいていた。

 今夜も、彼女はきっとウェルネススペースをこの香りでいっぱいにしてくれるのだろう。そこに入るのが、待ち遠しくて仕方ない。それほど、俺はこの香りが好きらしい。

 自宅のレジデンスに着くと、俺はそっとその扉を押した。まだ、有明会の会合をしているかもしれない。邪魔をするわけにはいかない。

 だが、玄関を入ってすぐ、違和感を覚えた。玄関に靴が一足も並んでいないし、部屋の中はおかしなほどしんとしている。

 もしかしたら、開催場所が変わったのかもしれない。ポケットのスマホを開いたが、万智からの連絡は入っていなかった。

 とにかく、部屋に入ろう。俺はスーツケースを持ったまま、リビングに入る。

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