愛に目覚めた冷徹孤高の心臓外科医は、政略結婚妻を離さない ――旦那様、この結婚は契約ですよね?
「あ、あの、私が!」

 慌ててキッチンに入ったが、瑞樹さんは食器用洗剤を手にこちらを振り向く。

「いいから、万智はのんびりしていてくれ」

 そこまで言われては、無理に私がやるというのも失礼な気がしてしまう。

「で、では、私はウェルネススペースにお香を炊いておきますね」

 早口にそう言うと、私はそそくさとウェルネススペースに向かった。なぜだかわからないけれど、ここにいては気持ちがおかしくなってしまう気がした。

 ウェルネススペースに入り、私は一度深呼吸した。気持ちを十分に落ち着けてから、いつものお香に火を灯す。

 瑞樹さんは今日、長距離を運転してくれた。お疲れだろうから、カモミールを多めに調合して、甘めの香りに仕立てよう。

 いつものように動いていると、自然と心が凪いでくる。漂い始めた甘く爽やかな香りのおかげで、ようやくしっかりと落ち着くことができた。

 私はもう一度、先ほどの皿洗いの件を考えてみる。

 瑞樹さんが『俺にやらせてくれ』と申し出たのは、やはり〝もっと手際よくやれ〟という暗黙のメッセージだったに違いない。
 夫婦の間に荒波を立てぬよう気を回して、穏やかな言い方をしてくれたのだろう。

 美術館に連れて行ってくれたのも、先ほどの推測通り、もっと自分を理解しろ、という瑞樹さんからのメッセージだ。
 これまでやってきたことだけでは、不十分。彼は今日、私にそう言いたかったのだ。

 つまり、私は瑞樹さんにふさわしい妻になるために、もっと努力しなくてはいけない。

 瑞樹さんは次期院長の座を見据え、難しいオペや学会への出席など、医師として最前線で奮闘している。
 パートナーである私が、ここで甘えていてどうするの!

 胸の内で自分を叱咤し、明日からの生活にぐっと気合を入れ直す。

 すると、不意にウェルネススペースの扉が開いた。瑞樹さんが、入ってきたのだ。

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