【野暮令嬢】と侮った皆様、覚悟はよろしいかしら?
side ヘンリク
食堂を後にしたヴィクトリアを切なく見送ったヘンリクは、急いで執事長と共に執務室に入った。
そして、帳簿を確認しながら各予算の余剰分を少しずつ削り、自身の今期の予算も見直して、会計にほとんど影響を及ぼさずに侯爵夫人の予算の三分の一の金額を捻出した。次の領地からの収入は四ヵ月先なので、妻にはこれで何とか賄ってもらえるだろう。
しかし、来期からは新たに侯爵夫人の予算を割り当てなければならないため、各項目をもう一度確認して予算の再分配をすべく見直しを行うことにした。
そして、改めてハンナの予算を見て驚いた。住居として提供している別邸の費用が、本邸の費用とそう変わらない。ハンナに割り当てられていた侯爵夫人の予算は毎年オーバーしており、不足分はヘンリクの予算を割いて充てられている。
そして、執事長から告げられた言葉で、たった今かき集めたばかりの妻の予算が消し飛んだ。
「ハネムーン中の請求書と、今回ハンナ様が注文された夜会用のドレスの請求書がまだ届いておりません。おそらく、先ほど捻出した金額と、他の予算の余剰分を加え、旦那様のご予算もほとんど残らないかと」
まだ次の収入まで四カ月あるのに、この時点で予算が底を付くなど初めてのことだった。最悪の場合、領地のために積み立てている金にも手を付けざるを得ないが、それだけは何としても避けなければならない。領地で一度災害が起これば、その復興には莫大な費用が掛かる。準備金はいくらあっても多すぎるということはないのだ。それを、予算が足りぬからと言って手を付ける事が常になれば、なし崩しに準備金は減って行く。
頭を抱えたヘンリクは、思いついたように執事長に聞いた。
「そうだ、ハンナの夜会用のドレスは何処へも着て行けないんだ。今からキャンセルすれば助けになる」
そう言うヘンリクに、注文書の束を確認していた執事長は首を横に振っている。
「ドレスの注文は二か月と少し前、ハネムーンに出かける前に注文されていますから、そろそろ出来上がる時期です。今からキャンセルは出来ません。それに合わせて首飾りと耳飾りも注文されていますね。これは、キャンセルは出来ませんが、ルビーの一揃えなので買値に近い金額で売却できると思います」
高位貴族家の伝統色と格式に沿ったドレスは売却できない。それがどれほど高額か、注文書の金額を見てヘンリクは愕然とした。
執事長は、分厚い納品書を確認しながら次々と書き出してリストを作ると、ヘンリクに手渡した。
「これが、ハンナ様を別邸にお連れになってから三年間のドレスと宝飾品のリストです。チェックを付けた物は売却が見込めるものですので、これらの売却をお願い出来れば、今期は十分乗り切れますし、奥様の予算も侯爵家として恥ずかしくない額を準備できます」
執事長から渡されたリストの合計は、一等地に別邸が購入できる金額に匹敵するほどのものだった。
これは、本来の侯爵夫人であれば何の問題もない出費だ。ヴィッセル侯爵夫人の予算で購入したものは、侯爵家の資産としてこうして目録を作成し、いざという時に領民や使用人のために活用するのだ。
しかし、侯爵家の資産であるこれらのものは、現在「友人」のハンナの手元にある。
今までずっと、買ったものは全てヴィッセル侯爵家に請求書を回すように言っていた。男爵家とは言え貴族であれば、それがヴィッセル家の資産であることは分かっているはずだ。
ヘンリクは深いため息を吐きつつ、ハンナの住む別邸へ向かった。
玄関に入ると、奥からハンナと侍女たちのはしゃいだような賑やかな声が聞こえる。出迎えた執事に案内され、サロンに入ると、ヘンリクを見つけたハンナが胸に飛び込んで来た。
「おかえりなさい、ヘンリク! 【野暮令嬢】のいる邸になんて一秒だっていたくないから、書類仕事が終ったらすぐ帰ってくるって約束したのに、急に帰れないだなんて、ひどいわ。私、本当に寂しかったのよ? それより、見て! このドレス! とっても素敵でしょう?」
そう言って手を引っ張って、ドレスの掛かったトルソーの前に連れて行かれた。
そこには、見紛うことのないボルドーのドレスと、ルビーのネックレスが掛かっていた。
ヘンリクは、使用人たちを下がらせると、ハンナをソファに座らせた。
「ハンナ、このドレスはいけない。この色は正妻にしか許されていないんだ」
その言葉をきょとんと聞いていたハンナは、不思議そうに聞き返した。
「え? だって私、ヘンリクの奥さんになるんでしょう? 【野暮令嬢】は閉じ込めて一生外には出さないから、私が正妻も同然だって言ったじゃない」
その言葉に、ヘンリクは首を振った。
「同然であっても、正妻ではないんだ。だからボルドーを着る事は許されていない。今度の夜会は他のドレスを着て欲しい。仕立てたまま袖を通していないものが沢山あるだろう?」
それを聞いたハンナは、首を振りながら涙声で訴えた。
「嫌よ! どうしてそんなこと言うの? 私を奥さんとして認めて貰えたって、夜会で紹介してくれるって言ったじゃない! なのに、どうしてあのドレスを着ちゃいけないの?」
ヘンリクは、ハンナの手を取って、言い聞かせるようにゆっくりと説明した。
「たとえ第二夫人として認められたとしても、家の伝統色を着る事は認められていないんだよ。だから、あのドレスを着て外に出てはいけないんだ。いいね? それから、【野暮令嬢】などと声高に言ってはいけない。彼女はこの国の最古参のウェーバー公爵家の当主なんだ。不敬は許されないんだよ」
その言葉を聞いたハンナの目が一瞬で吊上がり、いつもと違う低い声で捲し立てた。
「彼女って言ったの? 昨日まで【野暮令嬢】とか、あの女としか呼ばなかったのに、どうして急に彼女だなんて言うの? あんな女どうだっていいじゃない! 一生閉じ込めておくんでしょう? 私、一度だけ見たことがあるわ。ダサくて本当に気味が悪い女だったわ!」
ヘンリクは、ハンナの手を握る手に思わず力を込めて、言葉を止めようとした。
「ハンナ……」
それでもハンナは止まらなかった。
「女公爵の地位を笠に着て、偉そうにヘンリクに指図してるのね! 【野暮令嬢】が何を言ったって私に適う訳ないじゃない! あんな薄気味悪い女の言いなりになんてならないで! 目を覚まして!」
ヘンリクはもう一度手に力を入れ、ハンナの言葉を遮った。
「ハンナ、もうやめてくれ」
静かにゆっくりと告げられた言葉に、ハンナはヘンリクに取りすがり、涙ながらに震える声で訴えた。
「ねえ、ヘンリク、昨日帰ってこなかったのって、もしかしてあの女と一緒だったの? 白い結婚は嘘だったの? ハネムーンではあんなに愛し合ったのに、愛してるって何度も何度も言ってくれたのに……」
ヘンリクは、縋ったハンナの背を撫でながら、慰めるように言った。
「白い結婚はほんとうだよ。昨日は書類仕事が多くて来られなかったんだ……」
そう言いながら、ヘンリクは妻の姿を見た瞬間の、雷に打たれたような衝撃が蘇った。あの美しい笑顔が、横顔が、今でも脳裏に焼き付いて離れない。昨日はあの気持ちのままここへ来ることが出来なかったのだ。
昨日まであんなに愛しいと思っていたハンナの口から、妻を蔑む言葉が次々と出るのを聞くのが辛い。しかし、それらは自分も一緒になって吐いていた言葉だったと思うと居た堪れない。
身を寄せたハンナに、口づけをせがまれて交わしたものの、それ以上進める気にはなれなかった。どうして? と小さくすすり泣くハンナを抱きしめたまま夜過ごした。
一夜明け、泣き腫らした目を隠すように俯いたままのハンナは、朝食もほとんどとらなかった。サロンに移ると、ボルドーのドレスがトルソーに掛ったままだったので、侍女に片付けるように言い、ハンナにも、このドレスは絶対に着ないようにと念を押した。
項垂れたまま、それでも首を横に振るハンナの手を取り、もう一度言い聞かせた。
「頼むから言う事を聞いてくれ。正妻以外が家の伝統色を着るのは社交界では許されないルールなんだよ。それを破ると、ヴィッセル侯爵家は社交界から締め出されるんだ。私たちが結婚できなかったのだって、そのルールを破ったからだ。だから今度はきちんということを聞いて必ず約束を守ってくれ」
そう言うと、ハンナは顔を上げてヘンリクをまっすぐに見つめて言った。
「結婚できなかったのは私のせいだというの? 手を出してきたのはあなたのくせに!」
その言葉にヘンリクは言い返した。
「君が約束を破って友人たちに言いふらしたりしなければ、今頃私たちは結婚できていた。正妻の衣装が着られないのは君自身のせいだ」
「言いふらしてなんかいないわ! 少し相談しただけよ!」
「その相談を、君の友人たちが面白おかしくあちこちに吹聴して社交界に広まったんじゃないか。言いふらしたも同然だ」
言葉を返せず、しくしく泣き始めたハンナに、ハンカチを差し出したヘンリクだったが、その手はハンナに払い除けられた。
溜息をついてふと時計を見ると、妻が美術館へ出発する時間が迫っていた。彼女が出かけるまでには邸に戻っておきたい。
ヘンリクは、ポケットから執事長から渡されたリストを出すと、ハンナの前に置いていった。
「今期、君の予算がかなりオーバーしていて、他から捻出するのが難しいんだ。補填をしなければいけないから、このリストのチェックのある宝石を纏めておいてくれ。後で受け取りに来るから」
ハンナは震える手でリストを引き寄せた。
「え? どうして? この宝石は、私への贈り物でしょう?」
その問いに、ヘンリクは驚いて答えた。
「それらは君が買ってヴィッセル侯爵家に請求を回したものだ。予算を割り振っていたからその中から賄っていたんだ。侯爵家の予算で買ったものは、侯爵家の資産なんだよ。だから、補填が必要な時には手放すのが当然だろう」
何も言わずリストを見つめるハンナに、ヘンリクは、「また来る」といって邸を後にした。
リストをくしゃくしゃに丸めたハンナは、ヘンリクの出て行った扉に向かって投げつけた。
「あの【野暮令嬢】の嫌がらせに決まってるわ。あんな女の思い通りにはさせないんだから!」
ギリギリと歯噛みをしながら、窓からヘンリクの乗った馬車を見送った。
「嫌よ、ヘンリクもドレスも宝石も、【野暮令嬢】なんかに絶対渡さない」
◆◆◆
邸に戻ると、玄関ホールに見上げるような大男が立っていた。
妻を迎えに来たバルテス前公爵だと気づき、急いで礼を執った。
「本日は妻へのお招きありがとうございます」
それを見下ろしていたバルテス前公爵は、フンと鼻を鳴らしながら言った。
「新婚早々別宅から朝帰りとは、私にはとても考えられんことだ」
その言葉には何も言い返せず、礼を執ったまま動けない。
「ハネムーンに同伴した「友人」はずいぶん元気そうだぞ。「ヴィッセル侯爵家第二夫人」だとあちこちで触れ回っているようだ」
驚いて顔を上げると、蔑んだ目で見下ろされた。
「貴殿のような双方に不誠実極まりない男を、私は心の底から嫌いでな。見ていて不愉快だ。ところで、貴殿は自分の妻の名前を知っているか?」
昨日から思い出せない。執事長に聞こうとしてもはぐらかされ、ならば卒業証書と博士号の認定書をと思ってサロンに行くと、額の修理だと言って外されていた。
睨み据えるバルテス前公爵の目つきがだんだん鋭くなる。
「……ウェーバー女公爵……です」
そう答えた瞬間、くわッと目を見開いて鬼の形相になった。殺されるかと思った瞬間、ぱっと破顔して両手を広げ、階段の上に居る妻に向かって声を掛けた。
呼びかけた名前は「ヴィー」
彼女にぴったりの愛称だ。
私もいつの日か、彼女をそう呼べる日が来るだろうか……。
そして、帳簿を確認しながら各予算の余剰分を少しずつ削り、自身の今期の予算も見直して、会計にほとんど影響を及ぼさずに侯爵夫人の予算の三分の一の金額を捻出した。次の領地からの収入は四ヵ月先なので、妻にはこれで何とか賄ってもらえるだろう。
しかし、来期からは新たに侯爵夫人の予算を割り当てなければならないため、各項目をもう一度確認して予算の再分配をすべく見直しを行うことにした。
そして、改めてハンナの予算を見て驚いた。住居として提供している別邸の費用が、本邸の費用とそう変わらない。ハンナに割り当てられていた侯爵夫人の予算は毎年オーバーしており、不足分はヘンリクの予算を割いて充てられている。
そして、執事長から告げられた言葉で、たった今かき集めたばかりの妻の予算が消し飛んだ。
「ハネムーン中の請求書と、今回ハンナ様が注文された夜会用のドレスの請求書がまだ届いておりません。おそらく、先ほど捻出した金額と、他の予算の余剰分を加え、旦那様のご予算もほとんど残らないかと」
まだ次の収入まで四カ月あるのに、この時点で予算が底を付くなど初めてのことだった。最悪の場合、領地のために積み立てている金にも手を付けざるを得ないが、それだけは何としても避けなければならない。領地で一度災害が起これば、その復興には莫大な費用が掛かる。準備金はいくらあっても多すぎるということはないのだ。それを、予算が足りぬからと言って手を付ける事が常になれば、なし崩しに準備金は減って行く。
頭を抱えたヘンリクは、思いついたように執事長に聞いた。
「そうだ、ハンナの夜会用のドレスは何処へも着て行けないんだ。今からキャンセルすれば助けになる」
そう言うヘンリクに、注文書の束を確認していた執事長は首を横に振っている。
「ドレスの注文は二か月と少し前、ハネムーンに出かける前に注文されていますから、そろそろ出来上がる時期です。今からキャンセルは出来ません。それに合わせて首飾りと耳飾りも注文されていますね。これは、キャンセルは出来ませんが、ルビーの一揃えなので買値に近い金額で売却できると思います」
高位貴族家の伝統色と格式に沿ったドレスは売却できない。それがどれほど高額か、注文書の金額を見てヘンリクは愕然とした。
執事長は、分厚い納品書を確認しながら次々と書き出してリストを作ると、ヘンリクに手渡した。
「これが、ハンナ様を別邸にお連れになってから三年間のドレスと宝飾品のリストです。チェックを付けた物は売却が見込めるものですので、これらの売却をお願い出来れば、今期は十分乗り切れますし、奥様の予算も侯爵家として恥ずかしくない額を準備できます」
執事長から渡されたリストの合計は、一等地に別邸が購入できる金額に匹敵するほどのものだった。
これは、本来の侯爵夫人であれば何の問題もない出費だ。ヴィッセル侯爵夫人の予算で購入したものは、侯爵家の資産としてこうして目録を作成し、いざという時に領民や使用人のために活用するのだ。
しかし、侯爵家の資産であるこれらのものは、現在「友人」のハンナの手元にある。
今までずっと、買ったものは全てヴィッセル侯爵家に請求書を回すように言っていた。男爵家とは言え貴族であれば、それがヴィッセル家の資産であることは分かっているはずだ。
ヘンリクは深いため息を吐きつつ、ハンナの住む別邸へ向かった。
玄関に入ると、奥からハンナと侍女たちのはしゃいだような賑やかな声が聞こえる。出迎えた執事に案内され、サロンに入ると、ヘンリクを見つけたハンナが胸に飛び込んで来た。
「おかえりなさい、ヘンリク! 【野暮令嬢】のいる邸になんて一秒だっていたくないから、書類仕事が終ったらすぐ帰ってくるって約束したのに、急に帰れないだなんて、ひどいわ。私、本当に寂しかったのよ? それより、見て! このドレス! とっても素敵でしょう?」
そう言って手を引っ張って、ドレスの掛かったトルソーの前に連れて行かれた。
そこには、見紛うことのないボルドーのドレスと、ルビーのネックレスが掛かっていた。
ヘンリクは、使用人たちを下がらせると、ハンナをソファに座らせた。
「ハンナ、このドレスはいけない。この色は正妻にしか許されていないんだ」
その言葉をきょとんと聞いていたハンナは、不思議そうに聞き返した。
「え? だって私、ヘンリクの奥さんになるんでしょう? 【野暮令嬢】は閉じ込めて一生外には出さないから、私が正妻も同然だって言ったじゃない」
その言葉に、ヘンリクは首を振った。
「同然であっても、正妻ではないんだ。だからボルドーを着る事は許されていない。今度の夜会は他のドレスを着て欲しい。仕立てたまま袖を通していないものが沢山あるだろう?」
それを聞いたハンナは、首を振りながら涙声で訴えた。
「嫌よ! どうしてそんなこと言うの? 私を奥さんとして認めて貰えたって、夜会で紹介してくれるって言ったじゃない! なのに、どうしてあのドレスを着ちゃいけないの?」
ヘンリクは、ハンナの手を取って、言い聞かせるようにゆっくりと説明した。
「たとえ第二夫人として認められたとしても、家の伝統色を着る事は認められていないんだよ。だから、あのドレスを着て外に出てはいけないんだ。いいね? それから、【野暮令嬢】などと声高に言ってはいけない。彼女はこの国の最古参のウェーバー公爵家の当主なんだ。不敬は許されないんだよ」
その言葉を聞いたハンナの目が一瞬で吊上がり、いつもと違う低い声で捲し立てた。
「彼女って言ったの? 昨日まで【野暮令嬢】とか、あの女としか呼ばなかったのに、どうして急に彼女だなんて言うの? あんな女どうだっていいじゃない! 一生閉じ込めておくんでしょう? 私、一度だけ見たことがあるわ。ダサくて本当に気味が悪い女だったわ!」
ヘンリクは、ハンナの手を握る手に思わず力を込めて、言葉を止めようとした。
「ハンナ……」
それでもハンナは止まらなかった。
「女公爵の地位を笠に着て、偉そうにヘンリクに指図してるのね! 【野暮令嬢】が何を言ったって私に適う訳ないじゃない! あんな薄気味悪い女の言いなりになんてならないで! 目を覚まして!」
ヘンリクはもう一度手に力を入れ、ハンナの言葉を遮った。
「ハンナ、もうやめてくれ」
静かにゆっくりと告げられた言葉に、ハンナはヘンリクに取りすがり、涙ながらに震える声で訴えた。
「ねえ、ヘンリク、昨日帰ってこなかったのって、もしかしてあの女と一緒だったの? 白い結婚は嘘だったの? ハネムーンではあんなに愛し合ったのに、愛してるって何度も何度も言ってくれたのに……」
ヘンリクは、縋ったハンナの背を撫でながら、慰めるように言った。
「白い結婚はほんとうだよ。昨日は書類仕事が多くて来られなかったんだ……」
そう言いながら、ヘンリクは妻の姿を見た瞬間の、雷に打たれたような衝撃が蘇った。あの美しい笑顔が、横顔が、今でも脳裏に焼き付いて離れない。昨日はあの気持ちのままここへ来ることが出来なかったのだ。
昨日まであんなに愛しいと思っていたハンナの口から、妻を蔑む言葉が次々と出るのを聞くのが辛い。しかし、それらは自分も一緒になって吐いていた言葉だったと思うと居た堪れない。
身を寄せたハンナに、口づけをせがまれて交わしたものの、それ以上進める気にはなれなかった。どうして? と小さくすすり泣くハンナを抱きしめたまま夜過ごした。
一夜明け、泣き腫らした目を隠すように俯いたままのハンナは、朝食もほとんどとらなかった。サロンに移ると、ボルドーのドレスがトルソーに掛ったままだったので、侍女に片付けるように言い、ハンナにも、このドレスは絶対に着ないようにと念を押した。
項垂れたまま、それでも首を横に振るハンナの手を取り、もう一度言い聞かせた。
「頼むから言う事を聞いてくれ。正妻以外が家の伝統色を着るのは社交界では許されないルールなんだよ。それを破ると、ヴィッセル侯爵家は社交界から締め出されるんだ。私たちが結婚できなかったのだって、そのルールを破ったからだ。だから今度はきちんということを聞いて必ず約束を守ってくれ」
そう言うと、ハンナは顔を上げてヘンリクをまっすぐに見つめて言った。
「結婚できなかったのは私のせいだというの? 手を出してきたのはあなたのくせに!」
その言葉にヘンリクは言い返した。
「君が約束を破って友人たちに言いふらしたりしなければ、今頃私たちは結婚できていた。正妻の衣装が着られないのは君自身のせいだ」
「言いふらしてなんかいないわ! 少し相談しただけよ!」
「その相談を、君の友人たちが面白おかしくあちこちに吹聴して社交界に広まったんじゃないか。言いふらしたも同然だ」
言葉を返せず、しくしく泣き始めたハンナに、ハンカチを差し出したヘンリクだったが、その手はハンナに払い除けられた。
溜息をついてふと時計を見ると、妻が美術館へ出発する時間が迫っていた。彼女が出かけるまでには邸に戻っておきたい。
ヘンリクは、ポケットから執事長から渡されたリストを出すと、ハンナの前に置いていった。
「今期、君の予算がかなりオーバーしていて、他から捻出するのが難しいんだ。補填をしなければいけないから、このリストのチェックのある宝石を纏めておいてくれ。後で受け取りに来るから」
ハンナは震える手でリストを引き寄せた。
「え? どうして? この宝石は、私への贈り物でしょう?」
その問いに、ヘンリクは驚いて答えた。
「それらは君が買ってヴィッセル侯爵家に請求を回したものだ。予算を割り振っていたからその中から賄っていたんだ。侯爵家の予算で買ったものは、侯爵家の資産なんだよ。だから、補填が必要な時には手放すのが当然だろう」
何も言わずリストを見つめるハンナに、ヘンリクは、「また来る」といって邸を後にした。
リストをくしゃくしゃに丸めたハンナは、ヘンリクの出て行った扉に向かって投げつけた。
「あの【野暮令嬢】の嫌がらせに決まってるわ。あんな女の思い通りにはさせないんだから!」
ギリギリと歯噛みをしながら、窓からヘンリクの乗った馬車を見送った。
「嫌よ、ヘンリクもドレスも宝石も、【野暮令嬢】なんかに絶対渡さない」
◆◆◆
邸に戻ると、玄関ホールに見上げるような大男が立っていた。
妻を迎えに来たバルテス前公爵だと気づき、急いで礼を執った。
「本日は妻へのお招きありがとうございます」
それを見下ろしていたバルテス前公爵は、フンと鼻を鳴らしながら言った。
「新婚早々別宅から朝帰りとは、私にはとても考えられんことだ」
その言葉には何も言い返せず、礼を執ったまま動けない。
「ハネムーンに同伴した「友人」はずいぶん元気そうだぞ。「ヴィッセル侯爵家第二夫人」だとあちこちで触れ回っているようだ」
驚いて顔を上げると、蔑んだ目で見下ろされた。
「貴殿のような双方に不誠実極まりない男を、私は心の底から嫌いでな。見ていて不愉快だ。ところで、貴殿は自分の妻の名前を知っているか?」
昨日から思い出せない。執事長に聞こうとしてもはぐらかされ、ならば卒業証書と博士号の認定書をと思ってサロンに行くと、額の修理だと言って外されていた。
睨み据えるバルテス前公爵の目つきがだんだん鋭くなる。
「……ウェーバー女公爵……です」
そう答えた瞬間、くわッと目を見開いて鬼の形相になった。殺されるかと思った瞬間、ぱっと破顔して両手を広げ、階段の上に居る妻に向かって声を掛けた。
呼びかけた名前は「ヴィー」
彼女にぴったりの愛称だ。
私もいつの日か、彼女をそう呼べる日が来るだろうか……。