破断直後のEt cetera
ようやく本日の仕事が片付いた20時半。
消灯目前のビルを後にし、最寄りの駅へと向かう。
その途中、後ろから呼び止められた。
「大路!」
振り返れば、詩太さんが走ってくるのが見えた。
もう人通りも少ないし、社員がいないことを確認して、私も詩太さんに駆け寄る。
すると勢い任せに抱きしめられた。
「ま、待って! ここ、まだ会社の近く!」
「どうせ元婚約者なんだから。もう誰に見られたっていいだろ。」
自分から婚約解消を口走っておいて、今さら何を言っているのか。
ふくれっ面で抵抗しようにも、詩太さんの腕の中に埋められて何もできやしない。
抵抗を諦めた私は、久々に会えた温もりに身を任せることにした。
詩太さんの胸に耳を当てれば、息が少し荒い。本当に私の背中を追って走ってきてくれたのだろう。
嬉しすぎて涙が出そうになる。
夜はまだ風の強い春の初め。詩太さんの腕の中は、暖かくて居心地がいい。
「ちゃんと、生きてるか?」
「生きてますよ。デスクでは屍になりかけてますけど、こうして腕の中で詩太さんに生かされてます。」
「お前、ちゃんとかわいいことが言えるようになったな。」
「だって、詩太さんの前では、か、かわいい女でいたいし……」
憎まれ口を叩けない私は、恥ずかしさのあまり詩太さんの胸に顔を隠す。
最近私は、どんなに忙しくても美容を心がけているし、今のところ夜の筋トレも続けている。
詩太さんの隣に立つ相応しい女性になれるよう、外見にもこだわり始めたのだ。
「あんまりかわいくなっても困る。そっちの部署には楢崎だっているし、他の社員だって未怜に目をつけてる奴はいるかもしれない。」
「それはないですよ〜。私、仕事中は前髪ピンで留めてるし、メイク直す暇なんてありませんもん。」
「だから余計に困るんだよ。」
詩太さんに髪を撫でられて、頬に手が添えられる。
耳たぶを優しく指でつままれて、額をくっつけられた。
「俺のもんだって、早く皆に言いふらさねえと。」
「詩太さん……」
「好きだよ。」
ふわりとハーブの香りが鼻をついて、半開きの唇を寄せられる。
私も詩太さんの腕にしがみつき、その甘さを受け入れようと背伸びをした。
「春だねえ。いや日本は実に春だ。」
聞き覚えのある声が背後で響く。
嫌な予感に、詩太さんからすぐに離れた。
こわごわと振り返れば、オーバーコートに身を包み、丸い黒縁眼鏡をかけたお兄ちゃんが立っていた。
その後ろの通り沿いには、タクシーが一台停車している。