アンケート ― 選ばないという選択 ―
第47話 続けようとしていた
足音は一人分だった。
規則的で、急いでいなかった。一階から二階、二階から三階──止まらずに上がってくる。四階への踊り場で、足音が止まった。
扉の前で、止まった。
ノックが三回あった。
翔が美佳を見た。朝倉が立ち上がった。有栖川は扉の横に移動した。
美佳は動かなかった。
「どうぞ」と美佳は言った。
扉が開いた。
女性だった。
三十代の後半か、四十代の前半か。正確な年齢は分からなかった。背が高く、黒いコートを着ていた。髪は短く、表情は穏やかだった。穏やかすぎた。初めてこの部屋に来た人間の顔ではなかった。
美佳は女性を見た。
黒いコートの女性。
以前、姿を消した記憶が、静かに重なった。
商店街で、カフェの近くで、何度か視界の端にあった人物。輪郭だけがあって、顔が見えなかった人物。
今、顔が見えた。
「三枝美佳さん」と女性は言った。「お会いできて、よかった」
声は低く、落ち着いていた。
「あなたが」と美佳は言った。「Aラインの」
「ええ」と女性は言った。否定しなかった。
「私が設計しました。LAPISも、このサーバーも、@LAPIS_echoも」
部屋の中に、女性の言葉が残った。
翔がPCから目を離さなかった。ログを見続けていた。朝倉は立ったまま女性を見ていた。有栖川は壁際で静かにしていた。
「名前を聞いてもいいですか」と美佳は言った。
「久坂」と女性は言った。「久坂奈緒」
久坂は部屋の中に入ってきたが、扉の近くに立ったままだった。テーブルには近づかなかった。距離を保つことを、最初から決めているように見えた。
「座りますか」と美佳は言った。
「立ったままで」と久坂は言った。「長くなるつもりはないので」
「ユリさんは」と美佳は言った。
久坂の表情が、かすかに動いた。
「宮下さんは、今夜は来ていません」と久坂は言った。「ノートは、私が置きました」
「見せるために」
「あなたに読んでほしかった」
美佳は久坂を見た。
「なぜ」
「宮下さんがどういう状態にあるかを、あなたに知ってほしかったから」と久坂は言った。「私が説明するより、本人の言葉の方が正確です」
「ユリさんの言葉を、許可なく使った」と美佳は言った。
久坂は少し黙った。「そうです」
否定しなかった。認めた。ただ、謝らなかった。
美佳はその構造を観察した。認めるが謝らない。事実として受け取るが、問題とは思っていない。あるいは、問題だと思っていても、それより優先することがある。
「彩音さんも、そうでしたか」と美佳は言った。「善意を、許可なく使った」
「彩音さんは、自分で参加を選びました」と久坂は言った。
「選べる形で提示した」と美佳は言った。
「でも断れる形ではなかった」
久坂は答えなかった。
沈黙が十秒続いた。
「あなたは」と久坂は言った。「よく見ている」
「それが」と美佳は言った。「今夜ここに来た理由ですか。私がよく見ていることを確認しに」
「対話のために来ました」と久坂は言った。
「ファイルに書いた通り」
「対話」と美佳は繰り返した。「あなたが設計した対話ですね」
は「設計はしていません」と久坂は言った。
「今夜だけは」
久坂がコートのポケットから、小さな端末を取り出した。スマートフォンではなかった。古い型の、小さなデバイスだった。テーブルの上に置いた。
「LAPISの最初の設計図です」と久坂は言った。「データとして残っている最初のもの」
翔が顔を上げた。
「見せる理由は」と有栖川が初めて口を開いた。
「あなたたちが調べていることの、答えの一部がここにある」と久坂は言った。「私が話すより、見た方が早い」
「なぜ今夜」と美佳は言った。「なぜここで」
久坂は美佳を見た。
「あなたが来たから」と久坂は言った。「予定通りではありません。私が来たのは」
美佳は久坂を見た。
「ファイルに書いてあった。予定通り、と」
「あのファイルは」と久坂は言った。「私が書いたものではありません」
部屋の中が静かになった。
翔がキーボードを叩いた。何かを確認している音だった。
「ファイルを書いたのは」と翔が画面を見たまま言った。「Aラインへのアクセス権を持つ別の人間、ということですか」
久坂は頷いた。
「私の他に」と久坂は言った。「このサーバーに入れる人間が、一人います」
朝倉が息を吸う音がした。
「誰ですか」と美佳は言った。
久坂は答える前に、窓の方を見た。カーテンが閉まっていた。工場の灯りは見えなかった。
「ミオです」と久坂は言った。「宇野ミオ。止めようとして、止めきれなかったと、あなたたちは思っているでしょう」
「違うんですか」と美佳は言った。
「ミオは」と久坂は言った。「止めようとしていたのではありません」
久坂の声は変わらず穏やかだった。
「続けようとしていた」
規則的で、急いでいなかった。一階から二階、二階から三階──止まらずに上がってくる。四階への踊り場で、足音が止まった。
扉の前で、止まった。
ノックが三回あった。
翔が美佳を見た。朝倉が立ち上がった。有栖川は扉の横に移動した。
美佳は動かなかった。
「どうぞ」と美佳は言った。
扉が開いた。
女性だった。
三十代の後半か、四十代の前半か。正確な年齢は分からなかった。背が高く、黒いコートを着ていた。髪は短く、表情は穏やかだった。穏やかすぎた。初めてこの部屋に来た人間の顔ではなかった。
美佳は女性を見た。
黒いコートの女性。
以前、姿を消した記憶が、静かに重なった。
商店街で、カフェの近くで、何度か視界の端にあった人物。輪郭だけがあって、顔が見えなかった人物。
今、顔が見えた。
「三枝美佳さん」と女性は言った。「お会いできて、よかった」
声は低く、落ち着いていた。
「あなたが」と美佳は言った。「Aラインの」
「ええ」と女性は言った。否定しなかった。
「私が設計しました。LAPISも、このサーバーも、@LAPIS_echoも」
部屋の中に、女性の言葉が残った。
翔がPCから目を離さなかった。ログを見続けていた。朝倉は立ったまま女性を見ていた。有栖川は壁際で静かにしていた。
「名前を聞いてもいいですか」と美佳は言った。
「久坂」と女性は言った。「久坂奈緒」
久坂は部屋の中に入ってきたが、扉の近くに立ったままだった。テーブルには近づかなかった。距離を保つことを、最初から決めているように見えた。
「座りますか」と美佳は言った。
「立ったままで」と久坂は言った。「長くなるつもりはないので」
「ユリさんは」と美佳は言った。
久坂の表情が、かすかに動いた。
「宮下さんは、今夜は来ていません」と久坂は言った。「ノートは、私が置きました」
「見せるために」
「あなたに読んでほしかった」
美佳は久坂を見た。
「なぜ」
「宮下さんがどういう状態にあるかを、あなたに知ってほしかったから」と久坂は言った。「私が説明するより、本人の言葉の方が正確です」
「ユリさんの言葉を、許可なく使った」と美佳は言った。
久坂は少し黙った。「そうです」
否定しなかった。認めた。ただ、謝らなかった。
美佳はその構造を観察した。認めるが謝らない。事実として受け取るが、問題とは思っていない。あるいは、問題だと思っていても、それより優先することがある。
「彩音さんも、そうでしたか」と美佳は言った。「善意を、許可なく使った」
「彩音さんは、自分で参加を選びました」と久坂は言った。
「選べる形で提示した」と美佳は言った。
「でも断れる形ではなかった」
久坂は答えなかった。
沈黙が十秒続いた。
「あなたは」と久坂は言った。「よく見ている」
「それが」と美佳は言った。「今夜ここに来た理由ですか。私がよく見ていることを確認しに」
「対話のために来ました」と久坂は言った。
「ファイルに書いた通り」
「対話」と美佳は繰り返した。「あなたが設計した対話ですね」
は「設計はしていません」と久坂は言った。
「今夜だけは」
久坂がコートのポケットから、小さな端末を取り出した。スマートフォンではなかった。古い型の、小さなデバイスだった。テーブルの上に置いた。
「LAPISの最初の設計図です」と久坂は言った。「データとして残っている最初のもの」
翔が顔を上げた。
「見せる理由は」と有栖川が初めて口を開いた。
「あなたたちが調べていることの、答えの一部がここにある」と久坂は言った。「私が話すより、見た方が早い」
「なぜ今夜」と美佳は言った。「なぜここで」
久坂は美佳を見た。
「あなたが来たから」と久坂は言った。「予定通りではありません。私が来たのは」
美佳は久坂を見た。
「ファイルに書いてあった。予定通り、と」
「あのファイルは」と久坂は言った。「私が書いたものではありません」
部屋の中が静かになった。
翔がキーボードを叩いた。何かを確認している音だった。
「ファイルを書いたのは」と翔が画面を見たまま言った。「Aラインへのアクセス権を持つ別の人間、ということですか」
久坂は頷いた。
「私の他に」と久坂は言った。「このサーバーに入れる人間が、一人います」
朝倉が息を吸う音がした。
「誰ですか」と美佳は言った。
久坂は答える前に、窓の方を見た。カーテンが閉まっていた。工場の灯りは見えなかった。
「ミオです」と久坂は言った。「宇野ミオ。止めようとして、止めきれなかったと、あなたたちは思っているでしょう」
「違うんですか」と美佳は言った。
「ミオは」と久坂は言った。「止めようとしていたのではありません」
久坂の声は変わらず穏やかだった。
「続けようとしていた」