アンケート ― 選ばないという選択 ―
第49話 わたしが選んだことは
デバイスは古かった。
翔が接続を試みた。数秒の間があって、画面に反応があった。パスワードの要求はなかった。最初から、開けるように設定されていた。
「久坂さんが、開けておいた」と翔は言った。
「置いていくと決めて来た」と美佳は言った。「最初から」
翔がファイル構造を確認した。階層が深かった。フォルダがいくつも入れ子になっていた。翔は無言で掘り下げていった。朝倉が後ろから画面を見ていた。有栖川は椅子に座り直して、静かにしていた。
美佳は窓のカーテンを少し開けた。
久坂が去った方向を見た。暗くて何も見えなかった。足音も聞こえなかった。久坂はもう、この建物から遠ざかっていた。
なぜ一人では止められなかったんですか。
美佳の問いに、久坂は答えなかった。答えなかったことが、答えの一部だった。止められなかった理由を、久坂は知っている。知っていて、言わなかった。今夜言える言葉と、言えない言葉があった。
美佳はカーテンを戻した。
「ありました」と翔が言った。
画面に、フォルダが一つ表示されていた。名前は「origin」だった。
中にファイルが三つあった。
最初のファイルは図だった。システムの設計図だった。矢印と四角と数式が並んでいた。
翔が拡大した。美佳には細部まで読めなかったが、構造の大きさは分かった。
「LAPISより複雑です」と翔は言った。「これが元の設計なら、LAPISは簡略版だった」
「簡略版でも」と朝倉が言った。「あれだけの影響があった」
「元の設計が動いたら」と翔は言った。
言葉を止めた。続けなかった。
二つ目のファイルはテキストだった。技術的な仕様書で、翔と有栖川が読み始めた。美佳は三つ目のファイルを見た。
「最後のページ」と美佳は言った。「久坂さんが言っていた」
翔が三つ目のファイルを開いた。
一ページだけだった。
手書きをスキャンしたものだった。罫線のない白い紙に、細い字で一行だけ書いてあった。
インクが少し滲んでいた。古いものだった。
わたしが選んだことは、わたしが選んだことになりますか。
部屋が静かになった。
美佳はその一行を読んだ。もう一度読んだ。
字は丁寧だったが、力が入りすぎていた。書いた人間が、この問いを大切に扱おうとしていたことが、字の形から分かった。
「ミオが最初に書いた問い」と朝倉が静かに言った。
「ええ」と有栖川が言った。声がわずかに揺れていた。「これがLAPISの出発点だった」
美佳は一行を見続けた。
わたしが選んだことは、わたしが選んだことになりますか。
選択の根拠を信じられなかった人間が、最初に書いた問い。自分の選択が自分のものかどうか、確かめたかった人間の、一番最初の言葉。
LAPISは、この問いから生まれた。
美佳は自分の手を見た。今夜この建物に来ることを、問いの形にせずに決めた手だった。
予定通りだと分かった後も、自分で決めたと言えた。
ミオの問いと、美佳の感覚は、同じ場所から来ていた。
ただ、向かった方向が違った。
「ミオに会う必要がある」と美佳は言った。
三人が美佳を見た。
「会って、何を言うつもりですか」と有栖川が言った。
美佳は少し考えた。
「まだ分からない」と美佳は言った。「でも、この問いを書いた人間に、一度も会わずに終わるのは違う気がする」
「違う、というのは」と翔が言った。
「ミオはLAPISを通じて、何千人もの人間に問いを届けた」と美佳は言った。「私にも届いた。その人間が今も、ユリさんみたいな人を巻き込もうとしている。止めてほしいと久坂さんは言った。でも止めるためには、なぜ続けようとしているかを知らないといけない」
「久坂さんは」と朝倉が言った。「止めてほしいと言いながら、ミオの居場所を教えなかった」
「教えられない理由があるか」と美佳は言った。「教えたくない理由があるか」
「どちらだと思いますか」と有栖川が言った。
美佳は窓の方を見た。
「久坂さんは」と美佳は言った。「ミオが壊れていくのを見ていられなかったと言った。今も、ミオのことを守ろうとしている部分があると思う。教えられない、じゃなくて、教えたくない」
「それでも」と翔が言った。「ミオの居場所を探しますか」
美佳は翔を見た。
「設計図の中に、手がかりがあるかもしれない」と美佳は言った。「久坂さんは設計図を置いていった。止める方法が分かると言った。止める方法とミオの居場所が、同じ場所にある可能性がある」
翔が頷いた。「読みます」
有栖川が仕様書に視線を戻した。朝倉がデバイスを手に取った。
美佳はもう一度、ミオの問いを見た。
わたしが選んだことは、わたしが選んだことになりますか。
答えは出ていなかった。十二年以上、出ていないままだった。
美佳には、答えが出せるとは思えなかった。ただ、この問いを持ったまま生きてきた人間に、会うことはできると思った。
深夜になった。
四人は設計図を読み続けた。翔が技術的な構造を解析し、有栖川が仕様書と照合し、朝倉が図の全体像を紙に書き写した。美佳は全員の作業を横断しながら、断片を繋いでいった。
日付が変わる少し前、翔が手を止めた。
「美佳さん」と翔は言った。
「うん」
「設計図の中に、座標があります」
美佳は翔の画面を見た。
設計図の余白に、小さな数字が書き込まれていた。手書きだった。久坂の字ではなかった。別の人間の字だった。
「久坂さんが書いたんじゃない」と美佳は言った。
「ええ」と翔は言った。「これを書いたのは──」
翔は少し間を置いた。
「ミオだと思います」
美佳は座標を見た。
教えたくなかったが、教えた。久坂を通じて、設計図の中に、ミオは自分の場所を書き込んでいた。
来てほしかった。
美佳はそう思った。根拠はなかった。ただ、この問いを最初に書いた人間が、答えを外に求め続けた人間が、自分の居場所をここに残したことの意味を、美佳はそう受け取った。
「明日」と美佳は言った。「行きます」
翔が接続を試みた。数秒の間があって、画面に反応があった。パスワードの要求はなかった。最初から、開けるように設定されていた。
「久坂さんが、開けておいた」と翔は言った。
「置いていくと決めて来た」と美佳は言った。「最初から」
翔がファイル構造を確認した。階層が深かった。フォルダがいくつも入れ子になっていた。翔は無言で掘り下げていった。朝倉が後ろから画面を見ていた。有栖川は椅子に座り直して、静かにしていた。
美佳は窓のカーテンを少し開けた。
久坂が去った方向を見た。暗くて何も見えなかった。足音も聞こえなかった。久坂はもう、この建物から遠ざかっていた。
なぜ一人では止められなかったんですか。
美佳の問いに、久坂は答えなかった。答えなかったことが、答えの一部だった。止められなかった理由を、久坂は知っている。知っていて、言わなかった。今夜言える言葉と、言えない言葉があった。
美佳はカーテンを戻した。
「ありました」と翔が言った。
画面に、フォルダが一つ表示されていた。名前は「origin」だった。
中にファイルが三つあった。
最初のファイルは図だった。システムの設計図だった。矢印と四角と数式が並んでいた。
翔が拡大した。美佳には細部まで読めなかったが、構造の大きさは分かった。
「LAPISより複雑です」と翔は言った。「これが元の設計なら、LAPISは簡略版だった」
「簡略版でも」と朝倉が言った。「あれだけの影響があった」
「元の設計が動いたら」と翔は言った。
言葉を止めた。続けなかった。
二つ目のファイルはテキストだった。技術的な仕様書で、翔と有栖川が読み始めた。美佳は三つ目のファイルを見た。
「最後のページ」と美佳は言った。「久坂さんが言っていた」
翔が三つ目のファイルを開いた。
一ページだけだった。
手書きをスキャンしたものだった。罫線のない白い紙に、細い字で一行だけ書いてあった。
インクが少し滲んでいた。古いものだった。
わたしが選んだことは、わたしが選んだことになりますか。
部屋が静かになった。
美佳はその一行を読んだ。もう一度読んだ。
字は丁寧だったが、力が入りすぎていた。書いた人間が、この問いを大切に扱おうとしていたことが、字の形から分かった。
「ミオが最初に書いた問い」と朝倉が静かに言った。
「ええ」と有栖川が言った。声がわずかに揺れていた。「これがLAPISの出発点だった」
美佳は一行を見続けた。
わたしが選んだことは、わたしが選んだことになりますか。
選択の根拠を信じられなかった人間が、最初に書いた問い。自分の選択が自分のものかどうか、確かめたかった人間の、一番最初の言葉。
LAPISは、この問いから生まれた。
美佳は自分の手を見た。今夜この建物に来ることを、問いの形にせずに決めた手だった。
予定通りだと分かった後も、自分で決めたと言えた。
ミオの問いと、美佳の感覚は、同じ場所から来ていた。
ただ、向かった方向が違った。
「ミオに会う必要がある」と美佳は言った。
三人が美佳を見た。
「会って、何を言うつもりですか」と有栖川が言った。
美佳は少し考えた。
「まだ分からない」と美佳は言った。「でも、この問いを書いた人間に、一度も会わずに終わるのは違う気がする」
「違う、というのは」と翔が言った。
「ミオはLAPISを通じて、何千人もの人間に問いを届けた」と美佳は言った。「私にも届いた。その人間が今も、ユリさんみたいな人を巻き込もうとしている。止めてほしいと久坂さんは言った。でも止めるためには、なぜ続けようとしているかを知らないといけない」
「久坂さんは」と朝倉が言った。「止めてほしいと言いながら、ミオの居場所を教えなかった」
「教えられない理由があるか」と美佳は言った。「教えたくない理由があるか」
「どちらだと思いますか」と有栖川が言った。
美佳は窓の方を見た。
「久坂さんは」と美佳は言った。「ミオが壊れていくのを見ていられなかったと言った。今も、ミオのことを守ろうとしている部分があると思う。教えられない、じゃなくて、教えたくない」
「それでも」と翔が言った。「ミオの居場所を探しますか」
美佳は翔を見た。
「設計図の中に、手がかりがあるかもしれない」と美佳は言った。「久坂さんは設計図を置いていった。止める方法が分かると言った。止める方法とミオの居場所が、同じ場所にある可能性がある」
翔が頷いた。「読みます」
有栖川が仕様書に視線を戻した。朝倉がデバイスを手に取った。
美佳はもう一度、ミオの問いを見た。
わたしが選んだことは、わたしが選んだことになりますか。
答えは出ていなかった。十二年以上、出ていないままだった。
美佳には、答えが出せるとは思えなかった。ただ、この問いを持ったまま生きてきた人間に、会うことはできると思った。
深夜になった。
四人は設計図を読み続けた。翔が技術的な構造を解析し、有栖川が仕様書と照合し、朝倉が図の全体像を紙に書き写した。美佳は全員の作業を横断しながら、断片を繋いでいった。
日付が変わる少し前、翔が手を止めた。
「美佳さん」と翔は言った。
「うん」
「設計図の中に、座標があります」
美佳は翔の画面を見た。
設計図の余白に、小さな数字が書き込まれていた。手書きだった。久坂の字ではなかった。別の人間の字だった。
「久坂さんが書いたんじゃない」と美佳は言った。
「ええ」と翔は言った。「これを書いたのは──」
翔は少し間を置いた。
「ミオだと思います」
美佳は座標を見た。
教えたくなかったが、教えた。久坂を通じて、設計図の中に、ミオは自分の場所を書き込んでいた。
来てほしかった。
美佳はそう思った。根拠はなかった。ただ、この問いを最初に書いた人間が、答えを外に求め続けた人間が、自分の居場所をここに残したことの意味を、美佳はそう受け取った。
「明日」と美佳は言った。「行きます」