アンケート ― 選ばないという選択 ―
第51話 問いの生まれた場所
シャッターは腰の高さで止まったまま、動かなかった。
美佳は少し屈んで、暗がりの中に目を慣らした。床のコンクリートが見えた。その上に、膝を抱えて座っている人影があった。
「入ってもいいですか」
美佳が言うと、「どうぞ」という声が返ってきた。低くも高くもない、疲れた声だった。
内部は思ったより広かった。天井の高い倉庫で、使われていない木製のパレットが壁際に積まれている。明かりは一つだけ──床に置かれた小型のランタンが、半径二メートルほどを白く照らしていた。
ミオはそのランタンの傍に座っていた。三十代半ばくらいに見えた。くたびれたグレーのスウェット、膝の上に置かれた手、短く切られた髪。美佳が予想していた「システムの設計者」という輪郭からは、遠かった。
有栖川が先に口を開いた。
「三年ぶりです」
ミオが有栖川を見た。「あなたは変わりませんね」と言った。褒めているのか、ただ観察しているのか、判断できない言い方だった。
美佳はミオの隣、少し距離を置いてコンクリートの床に腰を下ろした。立ったまま話す気にはなれなかった。有栖川が美佳の後ろに立った。
「三枝美佳さん」とミオが言った。「顔は知っています。写真で」
「誰の写真ですか」
「久坂さんが持っていました。あなたのログを最初に見せてくれたのも、久坂さんです」
美佳は少し考えてから、「久坂さんは昨日、ここを出ていきました」と言った。
「知っています」
「会いましたか」
「ここ数年、会っていません。でも、昨日ここにいたのは分かりました。においで」
ミオが床の隅を指差した。そこには空のコーヒー缶が一つ、置かれていた。久坂が飲んだものだろうと、美佳は思った。
しばらく誰も喋らなかった。
ランタンの光が微かに揺れた。外から波の音がした。港湾施設の跡地だから、海が近いのだと美佳は気づいた。
「一つだけ、先に聞かせてください」と美佳は言った。「設計図の最後のページ、見ました」
ミオが静かに頷いた。
「あの問いは、今でも答えが出ていますか」
ミオが美佳を見た。今度は長く。
「出ていません」とミオは言った。「だから今もここにいます」
「ここにいるのは、答えを探すためですか」
「探すためじゃないと思います」ミオは膝の上の手を見下ろした。「答えが出なくても、問いがここにあることを確かめるためだと思います」
美佳は何も言わなかった。
「おかしいですか」とミオが聞いた。
「おかしくないです」と美佳は言った。それは本当だった。
有栖川が口を開いた。「三年前、私に連絡をくれたとき──久坂さんを怖い人だと言いましたね」
ミオが頷いた。
「今も、そう思っていますか」
ミオは少し考えた。「久坂さんは怖い人です。でも、怖い人だから間違っているとは限らない」
「どういう意味ですか」
「久坂さんがやったことは間違っていると思います。彩音さんのことも、ユリさんのことも」ミオはゆっくり言葉を選んだ。「でも、久坂さんがLAPISを止めようとした理由は──」
ミオが口を閉じた。
「理由は」と美佳が続けた。
「私のためだったと、思っています」ミオは小さな声で言った。「合ってるかどうかは、分かりません。でも」
「でも」
「あの人が間違った方法で正しいことをしようとしていたとしたら、それは私のせいでもあると思っています」
外の波の音がまた聞こえた。
美佳は「久坂さんも同じことを言っていました」と言った。「方向は逆だったけれど」
ミオが初めて、微かに表情を動かした。笑いではなかった。もっと疲れた、でも何かが緩んだような顔だった。
「宮下ユリさん、という人を知っていますか」と美佳は言った。
ミオの表情が止まった。
「知っています」
「どこで」
「@LAPIS_echoのフォロワーのログで見ました。久坂さんのサーバーにアクセスできたので」ミオは少し俯いた。「正しいことをしているのに不安、という問いを、ずっと繰り返していた人でした」
「ユリに場所を教えましたか」
間があった。
「教えました」とミオは言った。「ここではなく、変電施設跡地の方を」
美佳の胸の中で何かが静かに沈んだ。翔たちがいた場所だった。
「なぜですか」
「その問いに、外側からの答えが要らないことを、分かってほしかった」ミオは言った。
「でも──」
「でも」
「それも私の判断でした。ユリさんに聞かずに、私が決めたことでした」
ミオの声が少し変わった。自分を裁いているのではなく、事実として置いている声だった。
「あの問いは今、どこにありますか」と美佳は聞いた。
「分かりません」とミオは言った。「それだけが、今一番分かりません」
有栖川が「一度、連絡を取らせてください」と言って、倉庫の外に出た。翔への連絡だろうと美佳は思った。
二人きりになった。
ランタンの光の中で、ミオが「あなたに謝らないといけないと思っていました」と言った。
「謝らなくていいです」と美佳は言った。
「でも」
「謝られたいわけじゃないので」
ミオが美佳を見た。
「ログを見て、美佳さんのことを久坂さんに話したのは私です。あのDMも、最初の設計者候補の選定も、久坂さんが私の話を使いました」
「知っています」
「それでも」
「それでも謝らなくていいです」美佳は言った。「あなたが謝ることで、私が何かを受け取ったことにはならないから」
ミオが黙った。
「一つ聞いていいですか」と美佳は言った。
「はい」
「あの問いを──設計図に書いた最初の問いを、今でも信じていますか。自分が選んだことは、自分が選んだことになるかどうかって」
ミオが少し時間をかけて答えた。
「信じているかどうかより」とミオは言った。「その問いなしでは生きてこられなかった、という気がしています」
美佳は頷いた。
「それは分かります」と美佳は言った。
波の音が続いていた。ランタンの光が、二人の間の床を静かに照らしていた。
美佳は少し屈んで、暗がりの中に目を慣らした。床のコンクリートが見えた。その上に、膝を抱えて座っている人影があった。
「入ってもいいですか」
美佳が言うと、「どうぞ」という声が返ってきた。低くも高くもない、疲れた声だった。
内部は思ったより広かった。天井の高い倉庫で、使われていない木製のパレットが壁際に積まれている。明かりは一つだけ──床に置かれた小型のランタンが、半径二メートルほどを白く照らしていた。
ミオはそのランタンの傍に座っていた。三十代半ばくらいに見えた。くたびれたグレーのスウェット、膝の上に置かれた手、短く切られた髪。美佳が予想していた「システムの設計者」という輪郭からは、遠かった。
有栖川が先に口を開いた。
「三年ぶりです」
ミオが有栖川を見た。「あなたは変わりませんね」と言った。褒めているのか、ただ観察しているのか、判断できない言い方だった。
美佳はミオの隣、少し距離を置いてコンクリートの床に腰を下ろした。立ったまま話す気にはなれなかった。有栖川が美佳の後ろに立った。
「三枝美佳さん」とミオが言った。「顔は知っています。写真で」
「誰の写真ですか」
「久坂さんが持っていました。あなたのログを最初に見せてくれたのも、久坂さんです」
美佳は少し考えてから、「久坂さんは昨日、ここを出ていきました」と言った。
「知っています」
「会いましたか」
「ここ数年、会っていません。でも、昨日ここにいたのは分かりました。においで」
ミオが床の隅を指差した。そこには空のコーヒー缶が一つ、置かれていた。久坂が飲んだものだろうと、美佳は思った。
しばらく誰も喋らなかった。
ランタンの光が微かに揺れた。外から波の音がした。港湾施設の跡地だから、海が近いのだと美佳は気づいた。
「一つだけ、先に聞かせてください」と美佳は言った。「設計図の最後のページ、見ました」
ミオが静かに頷いた。
「あの問いは、今でも答えが出ていますか」
ミオが美佳を見た。今度は長く。
「出ていません」とミオは言った。「だから今もここにいます」
「ここにいるのは、答えを探すためですか」
「探すためじゃないと思います」ミオは膝の上の手を見下ろした。「答えが出なくても、問いがここにあることを確かめるためだと思います」
美佳は何も言わなかった。
「おかしいですか」とミオが聞いた。
「おかしくないです」と美佳は言った。それは本当だった。
有栖川が口を開いた。「三年前、私に連絡をくれたとき──久坂さんを怖い人だと言いましたね」
ミオが頷いた。
「今も、そう思っていますか」
ミオは少し考えた。「久坂さんは怖い人です。でも、怖い人だから間違っているとは限らない」
「どういう意味ですか」
「久坂さんがやったことは間違っていると思います。彩音さんのことも、ユリさんのことも」ミオはゆっくり言葉を選んだ。「でも、久坂さんがLAPISを止めようとした理由は──」
ミオが口を閉じた。
「理由は」と美佳が続けた。
「私のためだったと、思っています」ミオは小さな声で言った。「合ってるかどうかは、分かりません。でも」
「でも」
「あの人が間違った方法で正しいことをしようとしていたとしたら、それは私のせいでもあると思っています」
外の波の音がまた聞こえた。
美佳は「久坂さんも同じことを言っていました」と言った。「方向は逆だったけれど」
ミオが初めて、微かに表情を動かした。笑いではなかった。もっと疲れた、でも何かが緩んだような顔だった。
「宮下ユリさん、という人を知っていますか」と美佳は言った。
ミオの表情が止まった。
「知っています」
「どこで」
「@LAPIS_echoのフォロワーのログで見ました。久坂さんのサーバーにアクセスできたので」ミオは少し俯いた。「正しいことをしているのに不安、という問いを、ずっと繰り返していた人でした」
「ユリに場所を教えましたか」
間があった。
「教えました」とミオは言った。「ここではなく、変電施設跡地の方を」
美佳の胸の中で何かが静かに沈んだ。翔たちがいた場所だった。
「なぜですか」
「その問いに、外側からの答えが要らないことを、分かってほしかった」ミオは言った。
「でも──」
「でも」
「それも私の判断でした。ユリさんに聞かずに、私が決めたことでした」
ミオの声が少し変わった。自分を裁いているのではなく、事実として置いている声だった。
「あの問いは今、どこにありますか」と美佳は聞いた。
「分かりません」とミオは言った。「それだけが、今一番分かりません」
有栖川が「一度、連絡を取らせてください」と言って、倉庫の外に出た。翔への連絡だろうと美佳は思った。
二人きりになった。
ランタンの光の中で、ミオが「あなたに謝らないといけないと思っていました」と言った。
「謝らなくていいです」と美佳は言った。
「でも」
「謝られたいわけじゃないので」
ミオが美佳を見た。
「ログを見て、美佳さんのことを久坂さんに話したのは私です。あのDMも、最初の設計者候補の選定も、久坂さんが私の話を使いました」
「知っています」
「それでも」
「それでも謝らなくていいです」美佳は言った。「あなたが謝ることで、私が何かを受け取ったことにはならないから」
ミオが黙った。
「一つ聞いていいですか」と美佳は言った。
「はい」
「あの問いを──設計図に書いた最初の問いを、今でも信じていますか。自分が選んだことは、自分が選んだことになるかどうかって」
ミオが少し時間をかけて答えた。
「信じているかどうかより」とミオは言った。「その問いなしでは生きてこられなかった、という気がしています」
美佳は頷いた。
「それは分かります」と美佳は言った。
波の音が続いていた。ランタンの光が、二人の間の床を静かに照らしていた。