ふたつの弧が、重なるとき ~六年越しの両片思い。不器用な二人が、東京で0センチメートルになるまで。~
大学の講義棟の裏手にあるサークル棟は、いつ訪れても独特の湿気と埃っぽさが漂っている。
狭い部室のドアを開けると、古びたソファの革の匂いと、誰かが置きっぱなしにしたスナック菓子やチョコレートの匂いが鼻をついた。
窓から差し込む西日が、宙を舞う無数の塵をキラキラと照らし出している。
ソファには、二日酔いだといって授業をサボって寝ている男性の先輩が一人。
この部室の中ではわりと最近購入したらしい、まだ綺麗な小さなテーブルには、授業の合間の時間潰しで会話に花を咲かせている女性の先輩が二人。
古いパイプ椅子に浅く腰掛けると、ミシッという音がした。
僕はコンビニで買ったぬるいコーヒーを啜った。
「でさあ! 実際どうだったんだよ、中学時代のヨッシーは!」
ーーおいおい、ヨッシーって。
正人はとても人懐っこく、いいやつだ。
友達も多く、グイグイ距離をつめるタイプだが、思いやりの気持ちは持ち合わせており、相手にあわせて加減する。
美絵はサークルの飲み会を何度か重ねても、ほとんどの人にはまだ人見知りをしているようだが、この正人は持ち前のスキルで、あだ名呼びをするところまで辿り着いている。
まあ、僕はただの同級生だし、彼女がどう呼ばれようが、口出す権利はないんだけど…「あの」森美絵を、一ヶ月足らずで「ヨッシー」呼びするなんて、正人の対人スキルには尊敬するまである。
向かいの椅子で、正人が身を乗り出してくる。彼の瞳は、新しいおもちゃを見つけた子供のように輝いていた。
ただ、正人はおそらく、美絵のことを、異性として気になっているわけではなく、同じサークルの仲間として興味を持っている。
正人は「天性の人たらし」で、色んな人に興味を持ち、仲良くなるのだ。
「どう、って……言っただろ。高嶺の花だったって」
「いやいや、もっと具体的によ! 例えばさ、告白されたりとか、彼氏がいたりとかさあ」
正人の無遠慮な質問に、僕は苦笑して首を振る。
「……俺の知る限り、森さんにアタックできる中学生男子はいなかったわ」
「マジ? 誰も?」
「ああ。あまりに住む世界が違いすぎて、告白する勇気のある奴なんていなかったんじゃないかな。みんな遠くから見てるだけ。森さん、オーラがありすぎて……同い年と思えなかったし」
校内で見かける彼女は、いつも光の中にいた。
廊下で友達と笑っている姿、グラウンドで軽やかに宙を舞う姿。
男子生徒たちは教室の隅で、「森さんが笑った」「髪を切った」と噂話をするのが精一杯だった。もしかしたら、玉砕覚悟で挑んだ猛者がいたかもしれないが、その武勇伝が僕の耳に届くことはなかった。
「ふーん……じゃあ、彼氏は?」
「いなかったと思うよ、学校には」
嘘は言っていない。
「学校には」いなかった。
けれど、その言葉を口にした瞬間、喉の奥に小さな棘が刺さったような痛みが走る。
脳裏に蘇るのは、中学二年の冬の光景。
部活帰りの夕暮れ時。
吐く息が白く凍るような寒い日だった。
友達と別れ、商店街のアーケードを抜けた先、駅前のイルミネーションが煌めく雑踏の中で、手を繋いで歩く男女がいた。
ーーあ……彼女だ。
制服の上にベージュのダッフルコートを羽織り、柔らかそうな白いマフラーを巻いて歩いていた彼女は、森美絵だった。
その隣には、背の高い男がいた。
制服のズボンからして、市内の進学校に通う高校生だろうか…。
彼女は緊張しているような強張った顔をマフラーに埋め、けれど拒むことなく、その高校生と手を繋いでいた。
周囲の雑音が消え、どう見てもしっくりくる二人の姿が、スローモーションのように視界に焼き付いた。
ーー噂は、残念ながら、本当だった。
『森さんって、年上の彼氏がいるらしいぜ』
『マジかー。それじゃあやっぱり俺らじゃ相手にならねーな』
美絵にはいくつか真偽不明の噂が教室で囁かれていたが、一番真実であってほしくなかったものが、真実として、ずしりと僕の胸にのしかかった瞬間だった。
彼女には、僕たちの知らない世界がある。
大人っぽい彼女に、年上の彼氏。
悲しくも、腑に落ちてしまう感覚もあった。
僕が泥だらけのユニフォーム姿でグラウンドに入り浸る間に、彼女は少し大人の階段を上っている。
その事実は、中学生だった僕に、埋めようのない距離を突きつけた。
「……まあ、森さんは男子にとっては芸能人みたいなものだったわ。リアルな恋愛対象っていうよりは」
僕はコーヒーの残りを飲み干し、過去の映像を振り払うように立ち上がった。
「悪い、今日はもう帰るわ。バイトあるし」
「えー、もうちょい聞かせろよ祥太郎ー!」
正人の声を背中で受け止めながら、僕は逃げるように部室を後にした。
狭い部室のドアを開けると、古びたソファの革の匂いと、誰かが置きっぱなしにしたスナック菓子やチョコレートの匂いが鼻をついた。
窓から差し込む西日が、宙を舞う無数の塵をキラキラと照らし出している。
ソファには、二日酔いだといって授業をサボって寝ている男性の先輩が一人。
この部室の中ではわりと最近購入したらしい、まだ綺麗な小さなテーブルには、授業の合間の時間潰しで会話に花を咲かせている女性の先輩が二人。
古いパイプ椅子に浅く腰掛けると、ミシッという音がした。
僕はコンビニで買ったぬるいコーヒーを啜った。
「でさあ! 実際どうだったんだよ、中学時代のヨッシーは!」
ーーおいおい、ヨッシーって。
正人はとても人懐っこく、いいやつだ。
友達も多く、グイグイ距離をつめるタイプだが、思いやりの気持ちは持ち合わせており、相手にあわせて加減する。
美絵はサークルの飲み会を何度か重ねても、ほとんどの人にはまだ人見知りをしているようだが、この正人は持ち前のスキルで、あだ名呼びをするところまで辿り着いている。
まあ、僕はただの同級生だし、彼女がどう呼ばれようが、口出す権利はないんだけど…「あの」森美絵を、一ヶ月足らずで「ヨッシー」呼びするなんて、正人の対人スキルには尊敬するまである。
向かいの椅子で、正人が身を乗り出してくる。彼の瞳は、新しいおもちゃを見つけた子供のように輝いていた。
ただ、正人はおそらく、美絵のことを、異性として気になっているわけではなく、同じサークルの仲間として興味を持っている。
正人は「天性の人たらし」で、色んな人に興味を持ち、仲良くなるのだ。
「どう、って……言っただろ。高嶺の花だったって」
「いやいや、もっと具体的によ! 例えばさ、告白されたりとか、彼氏がいたりとかさあ」
正人の無遠慮な質問に、僕は苦笑して首を振る。
「……俺の知る限り、森さんにアタックできる中学生男子はいなかったわ」
「マジ? 誰も?」
「ああ。あまりに住む世界が違いすぎて、告白する勇気のある奴なんていなかったんじゃないかな。みんな遠くから見てるだけ。森さん、オーラがありすぎて……同い年と思えなかったし」
校内で見かける彼女は、いつも光の中にいた。
廊下で友達と笑っている姿、グラウンドで軽やかに宙を舞う姿。
男子生徒たちは教室の隅で、「森さんが笑った」「髪を切った」と噂話をするのが精一杯だった。もしかしたら、玉砕覚悟で挑んだ猛者がいたかもしれないが、その武勇伝が僕の耳に届くことはなかった。
「ふーん……じゃあ、彼氏は?」
「いなかったと思うよ、学校には」
嘘は言っていない。
「学校には」いなかった。
けれど、その言葉を口にした瞬間、喉の奥に小さな棘が刺さったような痛みが走る。
脳裏に蘇るのは、中学二年の冬の光景。
部活帰りの夕暮れ時。
吐く息が白く凍るような寒い日だった。
友達と別れ、商店街のアーケードを抜けた先、駅前のイルミネーションが煌めく雑踏の中で、手を繋いで歩く男女がいた。
ーーあ……彼女だ。
制服の上にベージュのダッフルコートを羽織り、柔らかそうな白いマフラーを巻いて歩いていた彼女は、森美絵だった。
その隣には、背の高い男がいた。
制服のズボンからして、市内の進学校に通う高校生だろうか…。
彼女は緊張しているような強張った顔をマフラーに埋め、けれど拒むことなく、その高校生と手を繋いでいた。
周囲の雑音が消え、どう見てもしっくりくる二人の姿が、スローモーションのように視界に焼き付いた。
ーー噂は、残念ながら、本当だった。
『森さんって、年上の彼氏がいるらしいぜ』
『マジかー。それじゃあやっぱり俺らじゃ相手にならねーな』
美絵にはいくつか真偽不明の噂が教室で囁かれていたが、一番真実であってほしくなかったものが、真実として、ずしりと僕の胸にのしかかった瞬間だった。
彼女には、僕たちの知らない世界がある。
大人っぽい彼女に、年上の彼氏。
悲しくも、腑に落ちてしまう感覚もあった。
僕が泥だらけのユニフォーム姿でグラウンドに入り浸る間に、彼女は少し大人の階段を上っている。
その事実は、中学生だった僕に、埋めようのない距離を突きつけた。
「……まあ、森さんは男子にとっては芸能人みたいなものだったわ。リアルな恋愛対象っていうよりは」
僕はコーヒーの残りを飲み干し、過去の映像を振り払うように立ち上がった。
「悪い、今日はもう帰るわ。バイトあるし」
「えー、もうちょい聞かせろよ祥太郎ー!」
正人の声を背中で受け止めながら、僕は逃げるように部室を後にした。