ふたつの弧が、重なるとき ~六年越しの両片思い。不器用な二人が、東京で0センチメートルになるまで。~
「かっとばせー! ター・ナ・カ!」
ドォン、ドォン、ドォン。
応援のトランペットや太鼓の重低音が、コンクリートの床を伝って足の裏に響く。
五月の夜風に乗って、生ぬるい湿度と、売り子が背負うビールサーバーの少しツンとした匂い、そして焼きそばのソースの香ばしさが混ざり合って届く。
神宮球場のスタンドは、カクテル光線に照らされた巨大な熱気の坩堝だった。
「わあ、すごい音! テレビで見るのと全然違うね!」
隣にいるいずみが目を丸くして、メガホンをポコポコと叩いている。
「そうだね。やっぱり、生で見ると迫力が違うよ」
私は歓声に負けないよう、少し声を張り上げて答えた。
「梅雨が始まる前に行こう!」と、サークルの新歓イベントとして企画された野球観戦。
隣に座る同期のいずみとは、先日開催された、二回目の飲み会で意気投合して仲良くなった。
とにかく明るくて、よく声をあげて笑う子だ。笑ったときに覗く八重歯が可愛い。背は低い方で、ボブにかけたパーマが小動物のような愛らしさを醸し出しているけれど、性格は意外と姉御肌。人見知りな私にツッコミを入れてくれたり、ぐいぐい引っ張ってくれたりと頼もしい。
サッカーが大好きな彼女のバッグには、今日も贔屓のチームのマスコットキーホルダーが揺れているけれど、これからは野球も覚えていきたいらしい。
私たちの周りには、授業終わりの大学生や、ネクタイを緩めたサラリーマンたちがひしめき合っている。
「いずみん、ヨッシー、これいるー?」
斜め前に座っている正人くんが、先ほど売店で買ったらしいポテトを差し出してくれた。
「おー!まさとん、ありがとう!いただきまーす!」
「ありがとう」
美絵はポテトを一つ摘んで頬張りながら、グラウンドを見つめる。
カキン!
乾いた音が夜空に響く。ボールが高く舞い上がった。
「あ! 飛んだ! ホームラン!?」
いずみが身を乗り出す。
打球は大きな弧を描き、三塁側のファールゾーンへ向かっていく。客席から「おおーっ」というどよめきが起こる中、相手チームの野手がフェンス際まで走り、グラブを差し出した。
スパン。
「あーあ、獲られちゃった……。ねえ美絵、今のファールゾーンだったよね? なんでアウトなの?」
いずみが不思議そうに首をかしげる。
「うん、ファールでもね、地面につく前にキャッチされちゃうと『ファールフライ』って言って、アウトになっちゃうんだよ」
「えー! そうなの? 線から出たら全部ファールかと思ってた!」
「ふふ、サッカーだとそうだもんね」
いずみに説明しながら、私は無意識のうちに、入場ゲートの方へと視線を投げた。
瀬川くん、遅いな。
正人くんによると、彼は今日は五限まで授業があるらしい。
正人くんがここにいるから、きっと到着したら近くに来るはずだ。
(早く来ないかな……)
元ピッチャーの彼なら、今のプレーをどう解説するだろう。
「今の配球、瀬川くんならどう思う?」なんて、聞いてみたい。
ざわめきの中で、私は空席になっている正人くんの隣の席を、祈るように見つめていた。
「お、祥太郎から連絡来た! もう着くってよ」
スマホを見た正人くんの声を聞いて、再度入場ゲートの方に視線を向けた時だった。
通路の階段を、ひときわ背の高い影が上がってくるのが見えた。
白いTシャツに、ネイビーのジーンズ。
いつもよりちょっとラフな格好が、新鮮に映る。
球場の強い照明に照らされ、彼の姿が浮かび上がる。
瀬川くんだ。
心臓がトクン、と跳ねる。
彼がキョロキョロと客席を見渡し、私たちの方へ視線を向けようとした、その時。
「あ! 祥くーん! こっちこっち!」
通路を挟んだ向こう側のブロックから、よく通る高い声が飛んだ。
サークルの先輩、真希さんだ。
瀬川くんが彼女に気づいて会釈をし、そちらに向かう。
「ちょうどここ空いたから座りなよ! 今の配球見た? すっごいマニアックな攻め方しててさー!」
真希さんは手招きしながら、彼の手首を掴むようにして自分たちの席へ引き寄せた。
彼女は高校時代、強豪野球部のマネージャーをしていたらしく、野球の話になると誰よりも熱くなる。
瀬川くんは一瞬、こちらを探すように視線を泳がせたけれど、先輩の勢いに押されたのか、そのまま真希さんの隣に腰を下ろしてしまった。
「あーあ、真希さんのとこ行っちゃったか」
正人くんがニヤニヤしながら、焼き鳥の串をかじる。
「真希さん、ああ見えてゴリゴリの野球オタクだからなあ。祥太郎のこと気に入ってるんだよ。話が合う男子なんて貴重だし」
ーー……気に入ってる、って。
「祥太郎、元エースで背も高くて、あの落ち着いた感じだろ? 狙ってたりして? さすがにそこまでではないか?」
ドクン。
嫌な音が胸の奥でした。
球場の歓声が、急に遠く膜を隔てたように聞こえる。
視界の端、真希さんが楽しそうに瀬川くんの肩を叩き、瀬川くんが何かを答えて、二人で笑い合っている姿が見える。
私には見せない、対等な「野球を深く知る者同士」の顔。
胸のあたりが、急にざらついた。
喉の奥に、冷たくて重い塊が居座ったような感覚。
(……なんだろう)
モヤモヤする。
せっかく楽しみにしていたのに。色々聞きたかったのに。
さっきまでのワクワクが、急激に冷えていくようだった。
私……もしかして、やきもちやいてる?
いや、違う。
人見知りの私が、ようやく気を使わずに話せる数少ない「友達」が、遠くへ行ってしまったから?
そう、心細いだけ……。
私は淀んだ気持ちを振り払うように、温くなりかけた麦茶を飲み込んだ。
ドォン、ドォン、ドォン。
応援のトランペットや太鼓の重低音が、コンクリートの床を伝って足の裏に響く。
五月の夜風に乗って、生ぬるい湿度と、売り子が背負うビールサーバーの少しツンとした匂い、そして焼きそばのソースの香ばしさが混ざり合って届く。
神宮球場のスタンドは、カクテル光線に照らされた巨大な熱気の坩堝だった。
「わあ、すごい音! テレビで見るのと全然違うね!」
隣にいるいずみが目を丸くして、メガホンをポコポコと叩いている。
「そうだね。やっぱり、生で見ると迫力が違うよ」
私は歓声に負けないよう、少し声を張り上げて答えた。
「梅雨が始まる前に行こう!」と、サークルの新歓イベントとして企画された野球観戦。
隣に座る同期のいずみとは、先日開催された、二回目の飲み会で意気投合して仲良くなった。
とにかく明るくて、よく声をあげて笑う子だ。笑ったときに覗く八重歯が可愛い。背は低い方で、ボブにかけたパーマが小動物のような愛らしさを醸し出しているけれど、性格は意外と姉御肌。人見知りな私にツッコミを入れてくれたり、ぐいぐい引っ張ってくれたりと頼もしい。
サッカーが大好きな彼女のバッグには、今日も贔屓のチームのマスコットキーホルダーが揺れているけれど、これからは野球も覚えていきたいらしい。
私たちの周りには、授業終わりの大学生や、ネクタイを緩めたサラリーマンたちがひしめき合っている。
「いずみん、ヨッシー、これいるー?」
斜め前に座っている正人くんが、先ほど売店で買ったらしいポテトを差し出してくれた。
「おー!まさとん、ありがとう!いただきまーす!」
「ありがとう」
美絵はポテトを一つ摘んで頬張りながら、グラウンドを見つめる。
カキン!
乾いた音が夜空に響く。ボールが高く舞い上がった。
「あ! 飛んだ! ホームラン!?」
いずみが身を乗り出す。
打球は大きな弧を描き、三塁側のファールゾーンへ向かっていく。客席から「おおーっ」というどよめきが起こる中、相手チームの野手がフェンス際まで走り、グラブを差し出した。
スパン。
「あーあ、獲られちゃった……。ねえ美絵、今のファールゾーンだったよね? なんでアウトなの?」
いずみが不思議そうに首をかしげる。
「うん、ファールでもね、地面につく前にキャッチされちゃうと『ファールフライ』って言って、アウトになっちゃうんだよ」
「えー! そうなの? 線から出たら全部ファールかと思ってた!」
「ふふ、サッカーだとそうだもんね」
いずみに説明しながら、私は無意識のうちに、入場ゲートの方へと視線を投げた。
瀬川くん、遅いな。
正人くんによると、彼は今日は五限まで授業があるらしい。
正人くんがここにいるから、きっと到着したら近くに来るはずだ。
(早く来ないかな……)
元ピッチャーの彼なら、今のプレーをどう解説するだろう。
「今の配球、瀬川くんならどう思う?」なんて、聞いてみたい。
ざわめきの中で、私は空席になっている正人くんの隣の席を、祈るように見つめていた。
「お、祥太郎から連絡来た! もう着くってよ」
スマホを見た正人くんの声を聞いて、再度入場ゲートの方に視線を向けた時だった。
通路の階段を、ひときわ背の高い影が上がってくるのが見えた。
白いTシャツに、ネイビーのジーンズ。
いつもよりちょっとラフな格好が、新鮮に映る。
球場の強い照明に照らされ、彼の姿が浮かび上がる。
瀬川くんだ。
心臓がトクン、と跳ねる。
彼がキョロキョロと客席を見渡し、私たちの方へ視線を向けようとした、その時。
「あ! 祥くーん! こっちこっち!」
通路を挟んだ向こう側のブロックから、よく通る高い声が飛んだ。
サークルの先輩、真希さんだ。
瀬川くんが彼女に気づいて会釈をし、そちらに向かう。
「ちょうどここ空いたから座りなよ! 今の配球見た? すっごいマニアックな攻め方しててさー!」
真希さんは手招きしながら、彼の手首を掴むようにして自分たちの席へ引き寄せた。
彼女は高校時代、強豪野球部のマネージャーをしていたらしく、野球の話になると誰よりも熱くなる。
瀬川くんは一瞬、こちらを探すように視線を泳がせたけれど、先輩の勢いに押されたのか、そのまま真希さんの隣に腰を下ろしてしまった。
「あーあ、真希さんのとこ行っちゃったか」
正人くんがニヤニヤしながら、焼き鳥の串をかじる。
「真希さん、ああ見えてゴリゴリの野球オタクだからなあ。祥太郎のこと気に入ってるんだよ。話が合う男子なんて貴重だし」
ーー……気に入ってる、って。
「祥太郎、元エースで背も高くて、あの落ち着いた感じだろ? 狙ってたりして? さすがにそこまでではないか?」
ドクン。
嫌な音が胸の奥でした。
球場の歓声が、急に遠く膜を隔てたように聞こえる。
視界の端、真希さんが楽しそうに瀬川くんの肩を叩き、瀬川くんが何かを答えて、二人で笑い合っている姿が見える。
私には見せない、対等な「野球を深く知る者同士」の顔。
胸のあたりが、急にざらついた。
喉の奥に、冷たくて重い塊が居座ったような感覚。
(……なんだろう)
モヤモヤする。
せっかく楽しみにしていたのに。色々聞きたかったのに。
さっきまでのワクワクが、急激に冷えていくようだった。
私……もしかして、やきもちやいてる?
いや、違う。
人見知りの私が、ようやく気を使わずに話せる数少ない「友達」が、遠くへ行ってしまったから?
そう、心細いだけ……。
私は淀んだ気持ちを振り払うように、温くなりかけた麦茶を飲み込んだ。