ふたつの弧が、重なるとき ~元エースピッチャーの彼と、走り高跳びの彼女。熱を持った六年越しの初恋を、不器用に重ね合わせていく~【完結】
憧れと恋心の狭間で、揺れ動く境界線

第7話

「かっとばせー! ター・ナ・カ!」
 ドォン、ドォン、ドォン。

 応援のトランペットや太鼓の重低音が、コンクリートの床を伝って足の裏に響く。
 湿度を帯びた生ぬるい夜風に乗って、ビールの少しツンとした匂いと、焼きそばのソースの香ばしさが混ざり合って漂ってきた。

 神宮球場のスタンドは、カクテル光線に照らされた巨大な熱気の坩堝だった。

「わあ、すごい音! テレビで見るのと全然違うね!」

 隣のいずみが、目を丸くしながらメガホンをポコポコと叩いている。

「そうだねっ。やっぱり、生で見ると迫力が違うよ」

 喧騒に負けないよう、少し声を張り上げて返した。

 私たちは今、「梅雨が始まる前に行こう!」と、サークルのイベントとして企画された野球観戦に来ている。

 横に座る同期のいずみとは、先日開催された二回目の飲み会で意気投合した。
 とにかく明るくて、よく声をあげて笑う子だ。
 その時にのぞく八重歯が可愛い。
 小柄で、ボブにかけたパーマが小動物のように愛らしい反面、性格は意外と姉御肌。
 人見知りな私にツッコミを入れてくれたり、ぐいぐい引っ張ってくれたりと頼もしい。
 サッカーが大好きな彼女のバッグには、贔屓のチームのマスコットキーホルダーが揺れているが、これからは野球も覚えていきたいらしい。

 周りには、授業終わりの大学生や、ネクタイを緩めたサラリーマンたちがひしめき合っている。

「いずみん、ヨッシー、これいるー?」

 斜め前に座っている正人くんが、先ほど売店で買ったらしいポテトを差し出してくれた。

「おー! まさとん、ありがとう! いただきまーす!」
「ありがとう」

 ひとつ摘んで頬張りながら、グラウンドを見つめる。

 ――カキン!

 快音が夜空に響く。
 ボールが高く舞い上がった。

「あ、飛んだ! ホームラン!?」

 いずみが身を乗り出す。

 打球は大きな弧を描き、三塁側のファールゾーンへ向かっていく。
 客席から「おおーっ」というどよめきが起こる中、相手チームの野手がフェンス際まで走り、グラブを差し出した。

 スパンッ。

「あーあ、獲られちゃった……。ねえ、美絵。今のファールゾーンだったよね? なんでアウトなの?」

 不思議そうに首を傾げるいずみ。

「うん。ファールでもね、地面につく前にキャッチされちゃうと『ファールフライ』って言って、アウトになっちゃうんだよ」

「えー! 線から出たら全部ファールかと思ってた」

「ふふ。サッカーだとそうだもんね」

 説明しながら、無意識のうちに入場ゲートのほうに目を向けていた。

(瀬川くん、遅いな)

 正人くんによると、彼は今日、五限まで授業があるらしい。
 到着したら、同期の男の子たちがいるこのあたりに、きっと来るはずだ。

(……早く来ないかな)

 元ピッチャーの瀬川くんは、今のプレーをどう解説するんだろう。
「今の配球、どう思う?」とか、聞いたりしてみたい。

 ざわめきの中で、目の前の空席を見つめていた。


「……お。祥太郎から連絡来た! もう着くってよ」

 正人くんの声を聞いて、再度入場ゲートに視線を向ける。

 通路の階段を、ひときわ背の高い影が上がってくるのが見えた。

 白いTシャツに、ネイビーのジーンズ。
 いつもよりちょっとラフな格好が、新鮮に映る。

 眩しい照明に照らされ、その姿が浮かび上がった。

(……瀬川くんだ)

 なぜか心臓がトクン、と鳴る。

 彼が客席を見渡し、目が合いそうになった、その時。

「――あ! 祥くーん! こっちこっち!」

 通路を挟んだ向こう側のブロックから、よく通る高い声が飛んだ。
 サークルの三年生、真希さんだ。

 彼女に気づいた瀬川くんは会釈をして、手招きされるまま向かう。

「ちょうどここ空いたから座りなよ! 今の配球見た? すっごいマニアックな攻め方しててさー!」

 真希さんは高校時代、強豪野球部のマネージャーをしていたらしい。
 彼の手首を掴み、隣に引き寄せた。

 一瞬、同期たちを探すように視線を泳がせた瀬川くんだったけれど、先輩の勢いに押されたのか、そのまま腰を下ろしてしまった。

「あーあ、真希さんのとこ行っちゃったか」

 正人くんがニヤニヤしながら、焼き鳥の串をかじる。

「真希さん、ああ見えてゴリゴリの野球オタクだからなあ。祥太郎のこと気に入ってるんだよ。話が合う男子なんて貴重だし」

(『気に入ってる』って……)

「祥太郎、元エースで背も高くて、あの落ち着いた感じだろ? 狙ってたりして。さすがにそこまでではないか?」

 ドクン。
 胸の奥で嫌な音がした。

 球場の歓声が、急に遠く膜を隔てたように聞こえる。

 視界の端、真希さんが楽しそうに瀬川くんの肩を叩き、彼が何かを答えて、二人で笑い合っているのが見える。

 私には見せない、対等な「野球を深く知る者同士」の顔だ。

 胸のあたりが、急にざらついた。
 喉の奥に、冷たくて重い塊が居座ったような感覚。

 モヤモヤする。

 せっかく楽しみにしていたのに。色々聞きたかったのに。
 さっきまでのワクワクが、急激に冷えていくようだった。

(私……もしかして……やきもち焼いてる?)

 いや、違う。
 人見知りの私が、ようやく気を使わずに話せる数少ない「友達」が、遠くへ行ってしまったから?

 そう、心細いだけ……。

 淀んだ気持ちを振り払うように、ぬるくなりかけた麦茶を飲み込んだ。
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