ふたつの弧が、重なるとき ――元エースピッチャーの彼と、走り高跳びの彼女。熱を持った六年越しの初恋を、不器用に重ね合わせていく。
第12話
バイトの時間だという正人くんが先に帰ってから少し経つと、ディナータイムに差し掛かるためか、店内は混み始めてきた。
私たちもファミレスを出ることにした。
「ふう。雨、強くなってるね」
会計を終えて出口に向かいながら、いずみがガラス戸の外を見て言った。
瀬川くんはキッチンのフォローもしているのか、あちらこちらで忙しそうにしていたので、残念ながら別れの挨拶はできずじまいだった。
扉を押し開け、お店の外に出る。
ここに来た時より激しさを増している雨は、ザーッという音を立てながら地面に打ちつけ、足元に水しぶきを飛ばしてきた。
先に傘を開いたいずみが振り返る。
「ねえ、美絵。もし時間あれば、駅前のカフェに寄っていかない?」
◇
いずみの誘いを二つ返事で了承し、足を踏み入れたカフェ。
雨宿りのためか、いつもより少し混んでいるようだ。
若干の喧騒の中で、微かに聴こえるジャズ。
運良く空いていた窓側のカウンター席を、やや急ぎ足で確保する。
いずみはカフェラテ、私はミルクティーを選んだ。
背の高い椅子に腰掛け、一息つく。
雨粒が、窓ガラスを滑り落ちていた。
「……で。美絵」
カップを両手で包みながら、いずみが真っ直ぐな瞳で私を見た。
「うん?」
「さっき、元気なかったでしょ。……瀬川くんが他の女の子と話してたから?」
ドキッとした。
隠せていたと思っていたのに。
「え!? そ、そんなことないよ……ただ、お腹が! そう。いっぱいになっちゃって……」
「うっそだあ」
優しくも鋭い追及。
彼女は少し身を乗り出して、声を潜めた。
「美絵さ。もしかして、瀬川くんのこと好きなの?」
「…………え」
――『好き』。
その二文字が、頭の中で反響した。
瀬川くんの顔が浮かぶ。
中学時代に、ピッチャーを頑張っていた背中。
筆箱の中身を拾ってくれた大きな手。
『いいよ』と言ってくれたメッセージ。
さっきの、エプロン姿も、カッコよかった。
でも――。
「……わかんない」
正直に答えた。
「わかんないの?」
「うん……。中学の頃から知ってるし、尊敬できるところがたくさんあるし、一緒にいると安心する。でも……これが『好き』なのか、昔から知っている人への『親しみ』なのか、自分でもよくわからなくて」
恋という感情を、まだ完全には理解できていなかった。
物語の中で見るような、キラキラしたものだろうか。ドラマチックなものだろうか。
「美絵はさ、誰かと付き合ったことある?」
その質問に、奥底にあった冬の記憶を思い出した。
「……一回だけ。カウントしていいのかわからないくらい、曖昧だけど……あるよ」
「曖昧? どういうこと?」
「うん。……中学二年のときね」
まだ湯気の立つミルクティーを見つめながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「親同士が知り合いで、近所に住んでた四つ上の人。その人、大学がエスカレーター式で決まって暇だったから、私の家庭教師をしてくれてたの」
「へえ! 家庭教師かあ。漫画みたい」
「そんなロマンチックなものじゃないよ。……かっこいいとは、思ってたけど。いつも『鈍臭い』とか『トロい』とか、意地悪ばっかり言われてて」
思い出すのは、私が数学のテストで間違えたところをペンで叩きながら溜息をつく顔。
言い返せるわけなんてなくて、唇を噛んでいた日々。
「でも、最後の授業の日に、急に『付き合う?』って聞かれたの」
「えっ、急展開!」
「私もビックリして……でも、断る理由もわからなくて、なんとなく『はい』って」
好きだったのかと聞かれたら、わからない。
ただ年上の、少し意地悪でかっこいいお兄さんにそう言ってもらえたのが、ちょっと誇らしかっただけかもしれない。
「で、どうなったの?」
「映画に二回行って、一度だけ手を繋いだ。……それだけ」
「え?」
「向こうが大学に入学したら、忙しくなったのか、連絡取れなくなって。……そのまま、自然消滅」
「ええっ? なにそれ!」
いずみが眉をひそめる。
「お母さん伝いに、『元気に大学通ってるらしいよ』って聞いて。ああ、高校生とか大学生ってそういう軽いノリで付き合ったり、終わったりするものなのかなって。……だから、結局私が彼を好きだったのかも、彼が私を好きだったのかも、わからないまま終わっちゃった」
そのときの記憶は、言葉通り、まるで夢だったかのように現実感がない。
手を繋いだときの温度も、思い出せない。
胸が苦しくなることも、泣きたい夜も、なかった。
ただ『付き合っている』という事実のラベルが貼られて、いつの間にか剥がれ落ちていただけ。
「だからね。私、恋愛に関する自分の気持ちにまだ疎くて」
窓の外の雨脚が、また更に強くなる。
瀬川くんを見たときの、ドキドキと安らぎ。
他の女の子と話しているときの、胸のざわめき。
これは、前の『なんとなく』とは違う気がする。
でも、もしこれも私の勘違いだったら?
尊敬や親しみを、恋と間違えているだけだったら?
またあんな風に、何もわからないまま終わってしまうのが不安なのかもしれない。
いずみは、ただ「話してくれてありがと」と言って、あたたかい瞳で、微笑んでくれた。
ほろ苦い過去の記憶も、彼女がかけてくれた優しさのおかげで、穏やかな夜の時間に溶けていくような気がした。
私たちもファミレスを出ることにした。
「ふう。雨、強くなってるね」
会計を終えて出口に向かいながら、いずみがガラス戸の外を見て言った。
瀬川くんはキッチンのフォローもしているのか、あちらこちらで忙しそうにしていたので、残念ながら別れの挨拶はできずじまいだった。
扉を押し開け、お店の外に出る。
ここに来た時より激しさを増している雨は、ザーッという音を立てながら地面に打ちつけ、足元に水しぶきを飛ばしてきた。
先に傘を開いたいずみが振り返る。
「ねえ、美絵。もし時間あれば、駅前のカフェに寄っていかない?」
◇
いずみの誘いを二つ返事で了承し、足を踏み入れたカフェ。
雨宿りのためか、いつもより少し混んでいるようだ。
若干の喧騒の中で、微かに聴こえるジャズ。
運良く空いていた窓側のカウンター席を、やや急ぎ足で確保する。
いずみはカフェラテ、私はミルクティーを選んだ。
背の高い椅子に腰掛け、一息つく。
雨粒が、窓ガラスを滑り落ちていた。
「……で。美絵」
カップを両手で包みながら、いずみが真っ直ぐな瞳で私を見た。
「うん?」
「さっき、元気なかったでしょ。……瀬川くんが他の女の子と話してたから?」
ドキッとした。
隠せていたと思っていたのに。
「え!? そ、そんなことないよ……ただ、お腹が! そう。いっぱいになっちゃって……」
「うっそだあ」
優しくも鋭い追及。
彼女は少し身を乗り出して、声を潜めた。
「美絵さ。もしかして、瀬川くんのこと好きなの?」
「…………え」
――『好き』。
その二文字が、頭の中で反響した。
瀬川くんの顔が浮かぶ。
中学時代に、ピッチャーを頑張っていた背中。
筆箱の中身を拾ってくれた大きな手。
『いいよ』と言ってくれたメッセージ。
さっきの、エプロン姿も、カッコよかった。
でも――。
「……わかんない」
正直に答えた。
「わかんないの?」
「うん……。中学の頃から知ってるし、尊敬できるところがたくさんあるし、一緒にいると安心する。でも……これが『好き』なのか、昔から知っている人への『親しみ』なのか、自分でもよくわからなくて」
恋という感情を、まだ完全には理解できていなかった。
物語の中で見るような、キラキラしたものだろうか。ドラマチックなものだろうか。
「美絵はさ、誰かと付き合ったことある?」
その質問に、奥底にあった冬の記憶を思い出した。
「……一回だけ。カウントしていいのかわからないくらい、曖昧だけど……あるよ」
「曖昧? どういうこと?」
「うん。……中学二年のときね」
まだ湯気の立つミルクティーを見つめながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「親同士が知り合いで、近所に住んでた四つ上の人。その人、大学がエスカレーター式で決まって暇だったから、私の家庭教師をしてくれてたの」
「へえ! 家庭教師かあ。漫画みたい」
「そんなロマンチックなものじゃないよ。……かっこいいとは、思ってたけど。いつも『鈍臭い』とか『トロい』とか、意地悪ばっかり言われてて」
思い出すのは、私が数学のテストで間違えたところをペンで叩きながら溜息をつく顔。
言い返せるわけなんてなくて、唇を噛んでいた日々。
「でも、最後の授業の日に、急に『付き合う?』って聞かれたの」
「えっ、急展開!」
「私もビックリして……でも、断る理由もわからなくて、なんとなく『はい』って」
好きだったのかと聞かれたら、わからない。
ただ年上の、少し意地悪でかっこいいお兄さんにそう言ってもらえたのが、ちょっと誇らしかっただけかもしれない。
「で、どうなったの?」
「映画に二回行って、一度だけ手を繋いだ。……それだけ」
「え?」
「向こうが大学に入学したら、忙しくなったのか、連絡取れなくなって。……そのまま、自然消滅」
「ええっ? なにそれ!」
いずみが眉をひそめる。
「お母さん伝いに、『元気に大学通ってるらしいよ』って聞いて。ああ、高校生とか大学生ってそういう軽いノリで付き合ったり、終わったりするものなのかなって。……だから、結局私が彼を好きだったのかも、彼が私を好きだったのかも、わからないまま終わっちゃった」
そのときの記憶は、言葉通り、まるで夢だったかのように現実感がない。
手を繋いだときの温度も、思い出せない。
胸が苦しくなることも、泣きたい夜も、なかった。
ただ『付き合っている』という事実のラベルが貼られて、いつの間にか剥がれ落ちていただけ。
「だからね。私、恋愛に関する自分の気持ちにまだ疎くて」
窓の外の雨脚が、また更に強くなる。
瀬川くんを見たときの、ドキドキと安らぎ。
他の女の子と話しているときの、胸のざわめき。
これは、前の『なんとなく』とは違う気がする。
でも、もしこれも私の勘違いだったら?
尊敬や親しみを、恋と間違えているだけだったら?
またあんな風に、何もわからないまま終わってしまうのが不安なのかもしれない。
いずみは、ただ「話してくれてありがと」と言って、あたたかい瞳で、微笑んでくれた。
ほろ苦い過去の記憶も、彼女がかけてくれた優しさのおかげで、穏やかな夜の時間に溶けていくような気がした。