ふたつの弧が、重なるとき ~元エースピッチャーの彼と、走り高跳びの彼女。熱を持った六年越しの初恋を、不器用に重ね合わせていく~【完結】

第15話

 ワンルームの部屋は、テレビをつけているにもかかわらず、しんと静まり返っているように感じる。
 冷蔵庫の運転音が、時折ブーンと低い唸り声をあげて、私の不安を煽るようだった。

 ベッドの上で膝を抱えながら、ぼんやりと光るスマートフォンの画面を見つめる。
 時刻は、二十一時を回っていた。

「……大丈夫かな」

 口をついて出るのは、今日何度目かわからない独り言だ。

 心配しているのは、もちろん瀬川くんのこと。
 タクシーに乗せたときの、あの焼けるような体温と、荒い呼吸が記憶に残っている。

 誰もいない部屋で、ちゃんとベッドまで辿り着けただろうか。
 水は飲めたかな。ごはんは食べられたかな。
 実家なら家族がいてくれるけれど、彼は私と同じく、地元から遠く離れた地での一人暮らしだ。
 もし、悪化して倒れてしまったりしたら……。

 迷った末に、親指を動かした。

『体調どうかな?』

 送信ボタンを押すと、画面の上に吸い込まれるように流れていく。

 既読がつかない時間が、ひどく長く思えてならない。
 ローテーブルに置いているラベンダーのディフューザーが、今日はなぜか少しキツく香る。


 スマホを握りしめたまま、じっと待つこと数分。

 ――ブブッ。

 手のひらに短い振動を感じて、すぐにメッセージを確認する。


『おかゆ食べて、もらったスポドリ飲んで寝たら、三十七度台まで下がったよ。心配かけてごめん』


「ふうーっ……」

 その文字を見た瞬間、長く息が漏れた。

(よかった。本当によかった)

 張り詰めていた肩の力が抜け、シーツに沈み込む。

『よかった……! でもまだ微熱はあるんだから、油断しないでね』

 そう返信しようとして、指を止める。

(なんか、お母さんみたい。もっと、こう……)

『よかったあ! 安心した。ゆっくり休んでね』

(うん。これならいいかな)

 送信して、スマホをサイドテーブルに置こうとしたら、すぐに既読がついた。
 そして、新しい吹き出しが現れる。

『あとさ。ひとつ聞いていい?』

『なに?』

 その場で返す。

『熱あるときって、風呂入っていいんだっけ? 汗かいて気持ち悪くて』

 思わず笑みがこぼれた。
 ネットで調べるのではなく、私に問いかけてくれたことが、どうしようもなく嬉しかったからだ。

『高い熱じゃなければ、さっと入るくらいなら大丈夫だよ。でも、湯冷めしないようにすぐ髪乾かしてね』

 そう送ると、すぐに返事がきた。


『サンキュ』


「ありがとう」でも、「助かる」でもなく、「サンキュ」。
 たった四文字の、砕けたカタカナ。

 これまで事務的な連絡事項しかなかった私たちのトーク履歴の中で、その文字だけが、ポッとあたたかい色を持って見えた。

「サンキュ、かあ……」

 口に出して反芻してみる。
 その響きは、私と彼との距離が、ほんの数センチだけ縮まった証のような気がした。

 そこでふと、頭をよぎる。

 真希さんと楽しそうに野球の話をしていた彼。
 ファミレスでクラスの女の子たちに囲まれていた彼。

(他の人とも、こんなふうにメッセージしてるのかな)

 正人くんとは、もっと雑な感じでやりとりしてるだろうし、真希さんとは野球の話でもっと盛り上がっているのかもしれない。
「サンキュ」なんて、挨拶のひとつだ。特別でもなんでもない。

 そう自分に言い聞かせるけれど。
 画面の中で光るその文字を見ると、胸の奥が甘く痺れるような感覚が消えなかった。
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