ふたつの弧が、重なるとき ~六年越しの両片思い。不器用なふたりが、東京で0センチメートルになるまで。~

第26話

「いーよ。よく寝てたな」

 彼女にそう答えた僕の声は、自分で思うよりずっと情けないほど甘く浮ついていたと思う。

 真っ赤な顔をして、「部屋戻るね!」と脱兎の如く逃げていく彼女の後ろ姿を、僕はただ呆然と見送ることしかできなかった。

 宴会場には、まだ何人かの部員が雑魚寝をしていた。
 僕も立ち上がり、凝り固まった首や肩を回しながら、自分の部屋へと続く薄暗い廊下を歩いた。

 木造の床板がミシッと鳴る。
 窓の外からは、夜明け前の青い空気に乗って、静かな波の音が聞こえてきた。

(……覚えているんだろうか)

 昨日の夜、トロンとした目で僕を見つめ、『祥ちゃん』と呼んだ彼女を思い出す。

 あれは、夢現の寝言だったのか。
 それとも、少しは僕に気を許してくれている証拠なのか……。

 彼女の柔らかい髪の感触と、石鹸の香りが、まだ僕の左肩にこびりついて離れない。

 その後、帰りのバスでも、東京駅での解散の時も、結局彼女と話すタイミングはなかった。
 というより……明らかに避けられていた。
 僕と目が合いそうになると、サッと視線を逸らし、いずみの背中に隠れてしまう。
 寄りかかって寝たことを申し訳なく思っているのか、それとも少し後悔しているのか……。

 確かめる術もないまま、夏の合宿は幕を閉じた。

 ◇

 自分のアパートに着くと、むせ返るような西日が部屋を赤く染め上げていた。
 窓を開けても、入ってくるのは湿った熱風と、絶え間ない蝉の声だけだ。

 荷物を解き、洗濯機を回す。

 片付けをこなしながらも、頭の中は彼女のことでいっぱいだった。

 合宿中、海辺を歩く姿も、花火を見つめる横顔も、なぜか拗ねているようだった横顔も。
 彼女はずっと、ずっと可愛かった。
 高嶺の花だと思っていた彼女が、僕の肩で眠り、名前で呼んでくれた。

 抑えきれない自分の気持ちが、夏の熱気とともに胸の中で膨張していくのがわかる。
 もう、会いたい。

 とはいえ、今は夏休み真っ只中。
 大学の講義棟で偶然すれ違うこともないし、サークルの公式なイベントも、秋口までしばらく予定されていない。

 ベッドに腰掛け、スマホの黒い画面を見つめる。
 理由もなく連絡をするのは、まだハードルが高い。
 何か、自然に会える口実はないか……。

 ふと、神宮球場での野球観戦の夜の、彼女の言葉を思い出した。

『見てみたいな。瀬川くんが教えてる野球チーム』
 彼女は確かに、そう言ってくれた。

(……夏休みだし、予定も合わせやすいかもしれない。誘ってみようか)

 そんな考えが浮かぶが、すぐに「でも……」と弱気が顔を出す。
 ただのお世辞だったらどうしよう。
 暑い中、グラウンドに呼び出すなんて迷惑じゃないか。

 いや、でも。
 泥まみれになって無邪気にボールを追う少年たちの姿を見てほしい。
 野球が好きな彼女なら、きっと楽しんでくれるはずだ。

 勇気を振り絞り、メッセージのトーク画面を開く。

『合宿お疲れさま。ゆっくり休んでね。そういえば、前に言ってた少年野球、もしよかったら見に来ない?』

 いや、これだと少し長いか。

『もし暇な日があれば、野球見においでよ』

 短すぎる。なんかチャラくないか?

 何度も文字を打っては消し、打っては消しを繰り返す。
 女々しいというか、男らしくない自分に心底呆れる。
 マウンドに立っていた頃の、あの強心臓はどこへ行ってしまったんだ。


 十分近く悩んだ末、結局、一番シンプルな文面に落ち着いた。

『合宿お疲れ。前に言ってた少年野球の練習、来週末の午後にあるんだけど、もし予定空いてたら見に来ない?』

 目を閉じて、送信ボタンをタップした。
 シュッ、という短い音が、部屋に響いた。

「……よし。風呂入ろ」

 返信を待つ緊張感に耐えきれず、僕は逃げるように浴室へと向かった。

 シャワーを浴び、汗と潮風のベタつきを洗い流す。
 シャンプーの爽やかな香りが、合宿の余韻を少しだけ遠ざけた。


 風呂から上がり、タオルで髪を拭きながら部屋に戻ると、ベッドの上に投げ出されたスマホの通知ランプが、暗い部屋の中でチカチカと緑色に光っていた。

「…………!」
 慌てて駆け寄り、ロックを解除する。

 だが、そこに表示されていたのは、正人からの『合宿の写真アルバム作ったぞー!』というグループメッセージへの通知だった。

「……なんだ、正人か」
 ホッとしたような、落胆したようなため息をつく。

 まだ髪が濡れたまま、紺色のカバーを付けた枕の上に、大の字になって寝転んだ。

 目を閉じると、彼女の栗色の髪と、はにかむような笑顔が浮かんでくる。

 返事は……来るだろうか。
 それとも、あの朝の出来事によって、距離を置かれてしまうだろうか……。

 ぐるぐると考えを巡らせているうちに、二日間の疲れが、僕の身体を捕らえた。
 手にスマホを握りしめたまま、僕はいつの間にか、深く静かな眠りへと引きずり込まれていた。
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