ふたつの弧が、重なるとき ~元エースピッチャーの彼と、走り高跳びの彼女。熱を持った六年越しの初恋を、不器用に重ね合わせていく~【完結】

第25話

 ガラリ、とキャリーケースの車輪が玄関のタイルで短い音を立てた。

 鍵を閉め、二日ぶりに自分の部屋へ足を踏み入れる。
 閉め切っていたワンルームには、留守の間に溜まった埃の匂いと、茹だるような熱気が充満していた。

 窓を開けてその空気を逃しながら、エアコンのリモコンを手に取り、一番強い風量でスイッチを入れる。
 冷風が吹き出し始めるより早く、私は靴下を脱ぎ捨て、薄紫の小花柄のカバーで揃えたベッドへとダイブした。

「…………っ」

 スプリングが大きく軋む音を聞きながら、数秒間、天井をぼーっと眺めた。

 合宿のダイジェストが脳内に流れる。
 最後に浮かんだのは――昨晩から今朝にかけての出来事。

「〜〜〜っ!!」

 手のひらで顔を覆い、両足をバタつかせ、ベッドの上で転げ回った。

 熱い。部屋が暑いせいじゃない。

(やっちゃった……やっちゃったよ……!)

 クッションを抱きしめ、ギュッと目を閉じる。
 脳裏には数時間前、あの明け方の光景が鮮明にフラッシュバックしていた。

 ◇

 今朝、午前四時。

「――ふぁっ!? ……寝ちゃってた!」

 隣で突如、いずみが変な声を上げて跳ね起きた。

 その大きな声に驚き、重い瞼をこすりながらゆっくりと意識を浮上させる。

 宴会をした広間は、青白い夜明けの空気に包まれている。
 窓の隙間から流れ込む、日中の賑やかさが嘘のように静かでひんやりとした潮風。
 遠くで、名前の知らない海鳥の鳴き声が聞こえた。

(…………ん……?)

 首を動かそうとした瞬間。
 自分の頬が、あたたかくて頼もしい何かに密着していることに気がついた。

 微かに鼻をかすめる、この香りは――。

 ハッとして視線を動かすと、黒いポロシャツの袖口が見えた。

 そしてその上には――静かな寝息を立てている、瀬川くんの整った横顔。

「……っ!?」

 心臓と肩が、大きく跳ねる。

(私、瀬川くんの肩にがっつり寄りかかって、寝てた……!?)

 勢いよく身体を離した反動で、彼もゆっくりと目を覚ました。
 黒いまつ毛が震え、眠たげな瞳が私を映す。

「……ん、起きた?」

「私! よ、寄りかかってた!? ごめん!!」

 パニックになって頭を下げると、彼は少しだけ首を回して筋を伸ばし、ふわりと優しく微笑んだ。

「……いーよ。よく寝てたな」

 朝靄のように低くて少し掠れた声。
 その響きが甘すぎて、胸の奥がきゅっと締め付けられる。

 徐々に頭が冴えてくると同時に、昨夜、微睡みの中での記憶が、パズルのピースのようにカチカチとはまり始めた。

『私のことも……名前で呼んでよ』
『私は……祥ちゃん、って呼ぶ』

(うそでしょ!? 私、なんであんな大胆なこと言った!?)

 夢だったのではないか。
 いや、夢だと思いたい。

 けれど、左頬に残る確かな温もりが、シャツの布地の感触が、それが紛れもない現実であることを突きつけていた。

「あっ……えっと! 私……部屋戻るね!」

 顔面から火を噴きそうなのを誤魔化すように立ち上がり、まだ眠くて状況を飲み込めていないいずみの腕を引っ張る。

 そのまま、逃げるように広間を後にした。
 彼の反応を見る余裕なんて、一ミリもなかった。

 ◇

 そして帰宅し、今に至る。

 合宿からの帰りのバスでも、その後の解散のときも。
 恥ずかしさのあまり、まともに目を合わせることができなかった。
 彼が近くを通るたびに、不自然に別の方向を見たり、いずみの後ろに隠れたりしてしまった。

「変に思われてないかな……」

 仰向けのまま、天井の照明を見つめて独り言をこぼす。

 自分から甘えておいて、「名前で呼んで」なんて言っておいて、いざ翌朝になったら避けるなんて。
 いくらなんでも失礼すぎるし、意味のわからないやつだと思われたかもしれない。

 嫌われたらどうしよう。
 あの優しい「いーよ」が、ただの呆れから来ていたらどうしよう。

 後悔と自己嫌悪の波が、寄せては返していく。

 エアコンが効き始め、部屋の空気が少しずつ冷えてきた。
 二泊三日の合宿の疲れと寝不足が、今になって泥のように身体にのしかかってくる。
 瞼が、もう限界を訴えていた。

(ちゃんと謝るメッセージ、しなきゃ……。起きたら……)

 薄れゆく意識の中。
 サイドテーブルに放り出したスマホの画面が、チカチカと光ったような気がした。
 誰かからのメッセージだろうか。

 確認しようと腕を動かそうとしたけれど、それよりも早く、深い眠りの底へと落ちていった。
< 44 / 183 >

この作品をシェア

pagetop